「吉野の誓い」


「この夜、私たちはまだ知らなかった。この誓いが国裂く刃になることを」(額田王)


山道
 山へ入るほど、空気は澄んだ。
 先を行く村国男依が大海人皇子に声をかけた。
「額田様に別れも言わず、で良かったんで?」
「言えば、心が揺らぐ」
 言い終えて、彼は自分の声の重さに気づく。山肌をなでる風が、まるで惑わすようだった。

 そのころ宮廷では、月が御簾の縁を白く撫でていた。
 額田王は窓辺に立ち、簪の紅椿を指で二度、軽く叩く。音は出ない。けれど、その二度で、胸のうちが定まる。——どうしても·····!

宮廷・大友皇子の間
 大友皇子の執務の間では、地図が几帳面に広げられていた。
 藤原不比等が各地の動向を短く述べ、印の位置を指していく。

「大海人殿下は吉野で兵と糧を蓄えるはずです」
「では、先に囲むまでだ。」
大友は扇子で口元を隠し、視線だけを鋭くする。「……不比等、もしもの時は——」
「その時は、必ず勝つ手を」
 廊の陰で、川島皇子が二人の会話を静かに飲み込んだ。

密やかな夜
 山は早く夜になる。焚火の前で大海人は膝を折り、掌を火にかざした。指先に、宮中の灯の記憶がわずかに残っている。
   ガサガサッと茂みが動く音がした。
「何者!?」
   警戒の滲んだ鋭い声が発せられた。
 物音が近づき、すぐ茂みから現れた。額田王だった。甘い香の香りがする。護衛はつけているだろうが、気配はない。裾に草の露。

「なぜ·····。」来たのだ、という言葉は、熱くなる胸の鼓動にかき消された。
「ごめんなさい、こんな所まで·····。お別れも、出来なかったから。」
 額田は息を整えるようにゆっくりと言った。声が震えている。大きな瞳の端が潤んでいるのは気のせいか。
   額田は澄んだ声で一首詠んだ。

山の端に かかる月影 君と見む
夢の浮橋 渡るとぞ思ふ

 焚火が静かに鳴った。大海人は立ち上がり、彼女の手を取る。こうして触れるのは、いつ以来だろうか。
   失ったはずの掌の温もり。熱い。
「済まない·····。だが兄上や大友に疎まれている今、こうする他なかった。しかし、信じてくれ。必ず戻る。」
 短い誓いが、火よりも熱かった。ふたりの影が重なる。
   都の気配も遠い吉野の山。鈴虫の声だけが響いている。

 夜明け、山裾に薄い靄が降りた。
 男依が馬を引いて待つ。「殿下、そろそろ参りましょう。」
「——あの詩があれば、私は迷わぬ」
 大海人は袖の内に一枚の短冊をしまい、鞍にかかる。額田は振り返らず、道へ降りていく。歩幅は小さい。だが、足取りは揺れない。

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号令
 不比等は夜の庭へ出た。露の残る飛石を踏んで歩きながら、懐から一通の文を取り出す。封は真新しい印で固められている。
 灯を遠ざけて封を切る。
 冒頭に太い文字があった——討大海人皇子。

 不比等は目を伏せ、笑いを消す。
「愛のために動く者と、国のために動く者。境は薄い。——だから、境を作るのが仕事だ」

 文を懐に戻し、彼は空を仰いだ。月は同じ明るさで、誰にも肩入れをしない。


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