リュシアは市場の角で、小麦の袋を並べながら腕を拭いた。
朝日が差し込む広場は、今日もにぎやかだ。
子どもたちの笑い声、大人たちの呼び声、そして遠くから聞こえるパン屋の鐘。
それでも、リュシアの心には少しの重みがあった。
「小麦、今日も足りるかしら」
つぶやくと、隣に立っていた助手の少年が答える。
「昨日より少ないですね。王様、また遠くから買ってきたのかな」
リュシアは頷きながら、荷車を押す。
市場を通ると、カイが友だちと走ってきた。
「あ、リュシアさん!」
カイはいつも元気な声で声をかけるが、今日はどこか少し真剣な顔をしていた。
リュシアは微笑みながら、手を振る。
「おはよう、カイ。今日もパンを楽しみにしてるのね」
カイはうつむき加減で、橋のことを思い出しているらしい。
リュシアは自分の店の小さな台に、粉や水を置き、手早く生地をこね始めた。
「ああ、また運ぶ道が壊れてるのよね……」
彼女は心の中でため息をついた。
数年前の大雨で、街外れの石橋が半分崩れたままだ。
誰も直す気配はなく、王国ではパンとサーカスで人々の不満を押さえ込んでいた。
表向きは平和でも、日々の暮らしには小さな困難が積み重なっていた。
市場を通る人々も、橋の話題には触れない。
「まあ、パンもらえてるし」「サーカスがあるし」
そんな声が、至るところで聞こえる。
リュシアはその空気に少し憤った。
「これでいいのかしら……みんな、困ってるのに」
でも口に出せば、非難されるかもしれない。
だから今日も、ただ生地をこね、パンを焼くしかなかった。
昼過ぎ、カイが店にやってきた。
「リュシアさん、橋が……まだ直ってないです」
リュシアは静かにうなずき、生地を丸めながら答えた。
「そうね。みんなが諦めてるから、王様も気にしないのよ」
カイは少し沈んだ表情になり、手元のパンを触った。
「でも、なんとかしたいです」
小さな声が、店内に響いた。
リュシアは驚いた。カイの目には決意が光っていた。
「その気持ち、無駄にはならないわよ」
リュシアは手を止め、カイの肩に軽く触れた。
「でもね、現実はね……」
それ以上は言えなかった。子どもにはまだ、王国の政治の複雑さは理解できないからだ。
午後になると、市場の人々が少しずつ減り始めた。
リュシアは焼き上がったパンを並べ、窓の外を眺める。
橋の向こうでは、子どもたちが遠回りをして遊んでいる。
荷車を押す母親の背中が、ゆっくりと坂を上る。
「こんなに不便なのに……でも、誰も声をあげないのね」
リュシアは小さくつぶやいた。
そのとき、遠くからカイの声が聞こえた。
「リュシアさん!」
振り返ると、カイが手紙を握りしめて走ってきた。
「これ……王様に渡すんです」
リュシアは手紙を見る。
「橋を直してください」
その短い言葉だけが、ページに書かれていた。
リュシアは笑みを浮かべた。
「そうね、たとえ小さな声でも、誰かが伝えなきゃ始まらない」
カイの手を軽く握り、店の奥に誘う。
「ちょっと待って、焼きたてのパンも一緒に持って行こう」
二人は小さなかごにパンを詰め、手紙と一緒に城へ向かう準備をした。
道すがら、広場を通ると人々が話す声が聞こえた。
「パンは美味しかった」「サーカスはすごかった」
でも、橋のことには誰も触れない。
リュシアはため息をつき、カイに小声で言った。
「みんな、困っていても黙ってるのね」
カイはうなずく。
「でも、僕は黙れないです」
その小さな決意が、リュシアの胸を温めた。
夕方、城への道で手紙を渡すカイを見守るリュシア。
城門の前では警備の兵士が立っている。
カイは少し緊張しながらも、手紙を差し出す。
「これ……王様に届けてください」
兵士は無言で受け取り、城の奥へと消えた。
カイが振り返ると、リュシアはにっこり笑った。
「小さな一歩でも、大事なことよ」
カイは手を振り返し、心の中で誓った。
(僕の声は、ちゃんと届くんだ)
夜、カイは家のベッドで天井を見つめた。
サーカスの音は遠くに消え、広場は静かになっていた。
でも、心の中には小さな希望が灯っていた。
あの短い手紙が、いつか国を少しだけ変えるかもしれない。
「僕の声が、誰かの目に届きますように」
そう思いながら、カイは眠りについた。
王国の人々は、今日も笑いながらパンを食べ、サーカスを楽しんだ。
けれど、街の片隅には小さな沈黙があり、橋の下には影が落ちていた。
そして、ひとりの少年の小さな声が、静かに王国の未来に触れ始めていた。