その日、私は「いただきます」が言えなかった。


【プロローグ】

“死神”と聞いて、あなたは何を思い浮かべる?

鎌? 黒いローブ? それとも、冷たい手?

……彼女は、違った。

【第1章★Pain──傷心】

朝の光が、まだ寒さを残す台所に差し込んでいた。

咲良は、冷めたご飯と味噌汁を前に、ぬくもりのない食卓で小さくつぶやいた。

「いただきます……」

その瞬間、ヒゲをたくわえた小太りの男が荒々しく立ち上がる。

右手で咲良の左頬をはたく。乾いた音が台所に響いた。

「おい、なんだその声は。感謝もできねぇのか?誰の金で飯食ってると思ってんだ、このクソガキが」

咲良は黙ったまま、ご飯を一口だけ口に運ぶ。

殴られた頬はじんと熱いが、もう泣かなくなって久しい。

胸の奥に渦巻く何かを、飲み込むことにも慣れてしまった。

男――継父は、良いことがあれば機嫌が良くなり、ギャンブルに負ければ周りに当たり散らす。

その心のコブが解消されるまで、機嫌が治ることはない。

仕事も長く続いたためしはなく、もちろん咲良の養育などには一ミリも興味がない。

自分こそが世界のすべてであり、思うようにいかないことがあれば、弱いものに暴力を振るう。

そうすれば、いくらかスッキリすると本気で思い込んでいるのだ。

典型的な柄の悪い男だった。

普段身につけているのは、たいてい黒のワイシャツ。

金のストライプが入っていたり、紫色で刺繍がされていたりする。

人の柄だけでなく、シャツの柄まで悪いのだから、救いようがない。

しかも、靴下だけはなぜか毎日ピンク色だった。

その暴力から逃れようと、いくら努力や工夫をしても焼け石に水だった。

咲良は嵐が過ぎ去るのを、いつも歯を食いしばりながら黙って耐えるしかなかった。

嵐は避けられない。ならば少しでも、被害を少なくしよう――。

――学校は、まだ“マシ”な場所だ。

そう思いながら、咲良はランドセルを背負った。

肩ひもの擦れる音だけが、小さく部屋に残った。


誰にも気づかれずに、人生が終わる瞬間を見届ける。

声をかけることも、手を差し伸べることも許されない。

それが、彼の役目だった。

あの少女は、今日も無事だった。

彼は、ただ観察する。誰にも知られず、記録し、終わりの瞬間を待つだけ。

それが“死神”という役割だ。そう教わったし、それでいいと思っていた。

だが、彼女を初めて視認したとき、何かがわずかに揺れた。

目に見えない風のような、微かな震えが、存在の奥底を撫でた。

言葉にならない感覚。思考とも感情ともつかない、曖昧な“ひっかかり”。

彼女の声は小さい。だが、確かに届く。

朝、ぬるんだ味噌汁を前に、唇を震わせて言った「いただきます」は、祈りにも似ていた。

誰かのためではなく、自分を保つための儀式のように。

彼はその声を記録しながら、なぜか一瞬、目を閉じた。

それは“記録”ではなく、“聴く”という行為だった。

ありえない。死神が、誰かの言葉に耳を澄ますなど。

それでも彼は、気づかないふりをした。

自分の中に、小さなノイズが生まれていることを。

記録は、正常に進んでいる。そう報告すれば済む話だ。

だが本当に、“正常”なのだろうか。

彼は今日も、彼女の背中を見ていた。

歩幅の小さなその背に、誰よりも長く視線を落としていた。

誰の命よりも、長く。


教室では、教師の声が黒板に響いていた。

咲良の席は、窓際のいちばん後ろ。

窓の向こうには、どこか遠い春の気配が揺れている。

友だちと楽しげに話す子もいれば、ふざけあう男子もいる。

けれど咲良の周りだけ、ぽつんと空白の時間が流れていた。

隣の子が話しかけてくれたこともあった。

でも返事をするのが怖い。

声を出すと「また怒られるかもしれない」と思ってしまう。

それでも先生に「問題がある」と言われたことはない。

ただ、静かで大人しい子――それだけだった。

誰にも迷惑をかけないように。

誰にも気づかれないように。

昼休み。

咲良は教室に残り、そっと給食を口に運ぶ。

白いパンと薄いスープ。味はわからない。ただ「食べなきゃ」と思って噛む。

窓の外では誰かの笑い声がはじけていた。

運動場で鬼ごっこをする子たち。

鉄棒にぶら下がる子。

おしゃべりを楽しむ女子グループ。

その輪のどれにも、咲良の姿はなかった。

咲良の心には、小さな声がある。

――話したい。笑いたい。でも、できない。

ぬいぐるみの中にしか、自分の声を隠せる場所はなかった。

そのぬいぐるみの名前は“リリィちゃん”。

小さなタグには「世界一やさしいくま」と書かれている。

今のところ、咲良の世界はくまが最強だった。


朝から降る雨がやまない冷たい一日だった。

咲良はランドセルを部屋の隅に置き、窓辺に膝を抱えて座った。
足元に散らばるクレヨン。擦り切れた絵本。
ぬいぐるみの耳に顔を寄せ、小さなノートを開く。
そこには震える文字が並んでいる。

――神さま、今日は怒られなかった。声を出さなかったからかな。
ほんとは、怖かったです。
でも……いい子にしてたら、見ててくれるの?

ページの片隅に、咲良はクレヨンでぐにゃぐにゃした小さな星を描き、中央に白い羽をもつ“誰か”の絵を添えた。

「……天使さん。今日も見てる?」

返事はない。沈黙すら咲良にはやさしかった。でも、ほんとうは返事がほしかった。

誰か、見つけて。気づいて。
世界のどこかに、ほんの少しでも、やさしい何かがあるって信じたい。
わたしは、ここにいるよ。

ノートの余白に、祖母との記憶が浮かぶ。
幼いころ、母と祖母が笑いながら台所に立っていた。
「さくら、今日のお味噌汁は特別おいしくできたわよ」
湯気の立つ椀を差し出しながら祖母は言った。

「あ、桜が咲いてる」

小さな咲良が窓の外を指差すと、祖母も笑った。

「ほんとねえ。おばあちゃんは、桜も好きだけど……“紫苑”っていう花も好きなのよ」
「しおん?」
「そう。小さな紫の花なの。花言葉は“あなたを忘れない”――すてきな花言葉でしょ。
昔、大事な人が好きだったの」

咲良は湯気の向こうでうなずいた。祖母は続けた。

――さくら、どんな時も『いただきます』だけは元気に言おうね。
――食べることは、生きることそのものなんだから。

おばあちゃん。もういないその人の声が、今でも咲良の中に残っている。

母もかつては優しかった。
日曜日の午後に絵本を読み、髪を撫でながら「大好きよ」とささやいてくれた。

けれど、継父との再婚と共に母の笑顔は消えた。
疲れ切った瞳は咲良を見ても何も言わず、ため息だけが部屋に落ちていく。
咲良はいつしか、母の笑顔を思い出せなくなっていた。

ノートの最後のページに、咲良は鉛筆でそっと書き加える。

たすけて。だれか――

隣には、手を合わせた小さな祈りの絵。
届くとは思わない。それでも書かずにはいられない。

窓の外から風が吹き込んだ。カーテンがゆっくり揺れ、星の瞬きが咲良の瞳に映る。

その瞬間――
どこからか、羽ばたくような音が、かすかに耳をかすめた。

星空の、さらにその上。
音も時間も凍りついた空間に、黒いコートの男が立っていた。

手には黒い砂時計。中の砂は、すでに落ちきっている。

病室のベッドで、老人が静かに眠る。家族の姿はない。
点滴の機械が、無機質な音を刻むだけ。

男はゆっくりと砂時計を逆さにした。老人の胸が沈み、やがて動きを止める。
それが彼――死神の役目だった。

誰にも知られず、誰からも求められず、ただ記録するだけの存在。
だがそのとき、胸の奥に、わずかな違和感が走る。

砂時計は沈黙している。次の死が、示されない。
代わりに浮かぶのは──あの少女。

黒衣の裾が、風の吹かぬはずの空間で、かすかに揺れた。

(監視か)

そう胸の内でつぶやきながらも、なぜだろう。
あの背中を思い浮かべるたび、心のどこかに“ひっかかり”が残る。

彼女は誰かに祈っていた。
けれど、その祈りは空へ届かず、ただ自分を支えるために存在していた。

かつて──誰かも、同じように祈っていた気がする。
名前も、姿も、もう思い出せない。
それでも、その残滓だけが、胸の奥でまだ消えずにいる。

死神は、そっと砂時計を握り直した。
右手を、ゆっくりと握ったり、開いたりする。

緊張したとき、無意識に出てしまう癖だった。
今までなら、そんな“癖”に気づくことすらなかったはずだ。

なのに――このときの彼は、確かに“自分の手”を意識していた。

遠く、夜空の下。
あの少女の窓辺には、まだ小さな祈りが置かれている。

たすけて。だれか──

風に乗るはずのないその声が、
確かに、死神の胸の奥に届いていた。

それが“痛み”という名の感情だとは、
このときの彼はまだ──知らなかった。


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