はばたき


 空をとぶ、というのはどんな感じだと思いますか?

 風が体をおしてくれるように感じて、まるで空そのものが、あなたを受け入れてくれているみたいです。

 地上はどんどん小さくなり、遠くの山も、青くひかる海も、ぜんぶ見わたせます。

 ――イカロスは、そんな世界にいました。

 翼を広げ、空のまんなかを、まっすぐ進んでいるのです。

 父・ダイダロスがつくってくれた羽根は、ふしぎなくらい軽くて丈夫で、イカロスの体を空に乗せてくれました。

「やった……!」

 イカロスは、思わず大声でさけびました。

 その声は、空にとけて、風になっていきました。

   *

 ふり返ると、父が後ろにいました。

 大きく手をふっています。口が動いています。

「とびすぎるな!」

 父の声は風に消えそうでしたが、イカロスにはちゃんと聞こえました。

「わかってるよー!」

 イカロスは、にっこり笑いながら手をふり返しました。

 けれど、心のどこかで、もう少し高くとびたい、という思いがふくらんでいました。

 だって、空はあんなに広くて、こんなにもきれいなんです。

 青い空のむこうには、まるで天国のような光がかがやいているように見えました。

 もっと、もっと――。

「……もうすこしだけ、上まで行ってみよう」

 イカロスは、ゆっくりと羽ばたきました。

 父の言葉が頭をよぎります。

 けれど、今の彼には風の音のほうが大きく聞こえていました。

   *

 イカロスは上へ、上へと昇っていきました。

 太陽が近くなると、空の色が金色に変わっていきます。

 空気はうすく、光はまぶしいほどに強くなります。

 でもイカロスは、止まりませんでした。

 心の中には、うまく言葉にできない気持ちがありました。

 とにかく、高く、とびたかったのです。

「このまま……太陽まで、とべるかもしれない」

 そう思ったときでした。

 ふと、右の翼がふるえました。

 つぎの瞬間、なにかがぽとりと落ちていく音がしました。

「え……?」

 イカロスが見おろすと、白い羽根が一枚、ひらひらと空中をまわりながら落ちていくのが見えました。

 そして――左の翼も、ぶるりとふるえたのです。

「どうして……!?」

 あせって羽ばたこうとしますが、翼はすこしずつ重くなっていきます。

 つなぎめに使っていた“ろう”が、溶けはじめていたのです。

 太陽の熱で、やわらかくなってしまったのです。

   *

「とばなきゃ……! 高くなりすぎたのか!?」

 イカロスは必死に羽ばたこうとしました。

 けれど、両方の翼は、ばらばらにゆれ、羽根は次々にこぼれていきます。

 もう、空をとぶ力は残っていませんでした。

「父さん……!」

 その名をよんだとき、体がふわりと浮いた気がして、つぎの瞬間――

 空がくるりとまわりました。

 落ちているのだと、気づいたのは、風が耳の横でうなっていたからです。

   *

 ダイダロスは、すぐに気づきました。

 後ろをふり返ったとき、息子がいなかったのです。

「イカロス……?」

 あたりを見まわすと、光のなかに、小さな影がひとつ、急にしぼんでいくように見えました。

「……まさか!」

 父は、風を切って落ちていく影を見て、すぐにそれがイカロスだと分かりました。

「イカロス――!!」

 ダイダロスは叫びました。

 けれど、その声が届くころには、イカロスの体はすでに空に飲みこまれ、

 小さな点になって、そして――消えていきました。

   *

 ――その後のことを、だれが正確に知っているでしょう。

 父・ダイダロスは、なんとか海をこえて、遠い島にたどり着きました。

 そして、しずかに、羽根をぬぎました。

 彼は二度と空をとぼうとはしませんでした。

 ただ、毎朝、海のほうを見て、目をとじました。

 そのたびに、あの青い空をとんでいた息子の姿を思い出していたのです。

「イカロス……おまえは、ほんとうに空をとんだんだな」

 その声は、とても小さく、波にまぎれていきました。


コメントする