わたしを気にしてくれた日、心の扉が少しだけ開いた。


第3章 ★★★Approach──接近

昼休みの終わりを告げるチャイムが、校庭の空へと吸い込まれていく。
鉄棒のそばに、咲良の姿があった。ランドセルを傍らに置き、膝の上にノートを広げている。鉛筆の先が紙の上を静かに走る。わずかな筆圧で、何かの印を描いていた。

木陰に潜む男が、彼女の姿をじっと見つめていた。
観察はすでに日課となっている。声をかけることも、触れることも許されない。けれど、見ることだけは許されていた。

咲良は、今日も静かだった。
クラスメイトがボールを追って駆けていく脇で、一人だけ時間の外にいるかのように、気配を薄めて座っている。
ノートのページには、彼女にしか意味のわからないしるしが並んでいた。星のような小さな印。それは言葉の代わりのように慎重に描かれていた。

そのとき、死神の右手が、ゆっくりと握られていった。
無意識に現れる、感情の乱れの兆候だった。
本来、そんなものは必要ない。だが、抑え込んだはずの何かが、こうして兆しを見せることがある。

わずかに目を伏せ、視線を戻した瞬間、空気が変わった。
ざらついた風が、校門のほうから吹き込んでくる。
フェンスの外に一人の男が立っていた。

黒いシャツに金のネックレス。
どこかで怒鳴り声を上げた直後のような剣呑な空気をまとい、煙草の臭いを引き連れている。
口元はかすかに笑っていたが、目は笑っていなかった。底の見えない視線が、まっすぐ鉄棒の方へ向けられている。

山城健吾。
咲良の戸籍上の父親だが、血のつながりはない。

彼の視線の先には、咲良がいる。

教師らしき女性が出てきて、彼に話しかける。男は短く何かを言うだけで、態度は神であるかのように尊大だった。女性の表情がほんのわずかに曇る。
やがて、通りすがりの生徒たちが校舎へ戻ろうと門の近くを通りかかる。男の存在に気づいた彼らは、無言のまま足早に通り過ぎていく。声を潜め、目を逸らしながら。

その瞬間、咲良が顔を上げた。

鉄棒のそばで凍りつくように動かなくなる。
視線の先にいた男を認識した瞬間、彼女の身体から色が抜けていくようだった。
鉛筆が指先から落ち、ノートの端が砂に触れる。
喉の奥で息がつかえ、表情が固まっていく。

男は一歩も動かず、ただじっと彼女を見ていた。
怒鳴るわけでも、笑うわけでもない。確認するような目で、ただ“そこにあるか”を確かめている。
まるで、自分の所有物がまだそこにあるかどうかを確認するかのように。

咲良の喉が小さく動いた。
呼吸の気配が不自然に細くなる。

死神の右手は、さらに強く握られていた。
拳に宿る力は、何かを抑え込むようでもあり、何かを封じているようでもあった。
だが、この場面で彼にできることは、ただ見届けることだけだった。

咲良は、ゆっくりと立ち上がる。
ノートも鉛筆も拾わず、ランドセルを背負う。
校舎に向かう足取りは重く、まるで空気が沈んだかのような歩みだった。

男は依然として動かない。
背を向けた少女を、最後まで見送るように、その場に立ち尽くしていた。

空気の密度がわずかに変わった。
音も色も変わらないのに、景色だけが薄い膜に覆われたように歪んで見える。
それは彼だけが感じ取れる、境界の“きしみ”だった。

時間の終わりを告げるものではない。ただ、何かがすでに傾き始めていることだけを示していた。

咲良のノートだけが、校庭に取り残されていた。
風にめくられたページに、星の印がひとつだけ揺れていた。


食卓の端には、コンビニの袋が一つ置かれていた。
咲良はそれに手をつけず、ノートを開いたまま動かない。
ランドセルの隅から顔を覗かせたクマの水筒だけが、この空間にわずかな色を残していた。
台所には誰の気配もない。咲良が帰ってきたときから、母親の姿は見えていなかった。

死神は壁の陰に立ち、じっとその様子を見つめていた。
その存在に気づく者は誰もいない。だが彼の視線だけは、咲良の動きに細やかに反応していた。

咲良は何も書かず、ただページをめくっては、また戻っていた。手の動きだけが、所在なげに時間をやり過ごしている。
顔に浮かぶのは表情とは言えない、空っぽの仮面のようだった。

廊下の奥から、重たい足音がゆっくりと近づいてくる。咲良の肩がわずかにすくんだ。

「またコンビニ弁当かよ。たまにはあったかいメシ出せってんだよ」

低く濁った声。
居間に入ってきたのは、黒いシャツのままの男──継父だった。
手には缶ビール。テレビをつけると、野球中継の音が部屋に広がる。咲良には一言も言葉をかけないまま、ソファに体を投げ出した。

咲良は、テレビの音が鳴り始めた瞬間から、完全に身じろぎを止めた。
ページをめくる動きも、鉛筆を持つ手も止まり、まるで気配そのものを消すように、小さく、小さくなっていく。
それは生存本能のようなものだった。

男は缶を空ける音を立てながら、何度もリモコンを操作し、文句をつぶやいている。誰に向けてでもない。
咲良に向けてでも、直接的な暴力でもない。
それでも、見れば誰にでもわかる。あの空間がどれほど張りつめ、冷えきっているかが。

咲良のノートに描かれた図形が、ふと目に入った。
かすれた鉛筆の線で描かれた、二つ並んだ小さな星のような印。
その下に、ほとんど力の入っていない字で、ひらがながひとつだけ記されていた。

──ありがとう。

死神は右手を見下ろした。
開こうとしていた指先に、わずかな揺らぎが走る。
何に対しての“ありがとう”なのか。それは本人にしかわからない。
だが確かに、その文字は誰かへ向けて書かれたものだった。
咲良は誰にも話していない。話せない。
それでも、この家のどこかに、“誰かがいてくれる”と信じているのだろうか。

テレビの音が少し大きくなった。男が音量ボタンを押すたびに、空間の密度が重くなる。
咲良はまばたきを一度もしないまま、ただノートを見つめ続けていた。

死神の中に、説明のつかない感情が渦巻いた。
あの男は、何もしていない。
手を挙げたわけでも、怒鳴ったわけでもない。
それでも、あの部屋には暴力がある。音もなく、色もなく、咲良の呼吸を奪っていくような圧力が。

右手に力がこもる。
骨がきしむ音がした。
目に見えない“何か”が、掌の内側からじわりと漏れ出していくようだった。

テレビに映った選手がホームランを打った瞬間、男が笑った。
その笑い声が、部屋の空気をほんの一瞬だけ歪ませた。
咲良は、動かなかった。

死神の手は、それでもまだ開かれていない。
彼の中で何かが動いていた。だが、まだ、それは抑え込まれていた。

咲良のノートのページが、かすかに風にめくられた。
“ありがとう”の文字が、すっと視界の隅に消える。


夜の帳が降り、部屋の明かりが輪郭を失っていく。
ソファの上に投げ出された継父の脚が、だらしなく揺れている。
缶ビールはすでに空になり、床に転がっていた。二本、三本──数える意味はない。

咲良は居間の隅で、小さくなって座っていた。
ノートはもう開かれていない。抱えた膝の奥に顔を埋め、動かない。

テレビの音だけが流れている。画面の中ではバラエティ番組の芸人が笑っているが、この部屋には誰の笑い声も届かない。
男はソファに体を埋めたまま、何度もリモコンをいじっている。音量が上がり、チャンネルが切り替わる。
咲良のまばたきの間隔が、どんどん長くなっていく。

死神は、部屋の天井近くからその様子を見ていた。
彼の右手は、知らず知らずのうちに力を帯びていた。
咲良の肩が震えるたび、指先がかすかに動く。
その動きは、理屈ではなく、衝動に近かった。

「おい……水」

男の声が飛ぶ。
咲良はゆっくりと顔を上げ、立ち上がる。
返事はない。だが、ためらいもなかった。
台所へと向かう足取りは、重くもなく、早くもない。ただ、身についた動作として彼女の体が動いていた。

冷蔵庫の前で立ち止まり、コップに水を注ぐ。
そして黙って男に差し出す。
男は手を伸ばしてそれを受け取り、テレビから一瞬だけ視線を外した。

「なんだこれ、ぬるいじゃねぇかよ……」

乱暴にコップをテーブルに叩きつける。水がこぼれ、咲良の手の甲にかかった。
それでも彼女は顔色ひとつ変えなかった。
黙ってティッシュを取り、濡れた部分を拭き始める。

死神の右手が、震えた。

その手が開けば、世界の一部が終わる。
それは知っている。
だが今、なにかがその指の先から漏れ出しそうになっている。

男は、ビールの缶を足で蹴り、あくびをしながらソファに背を預けた。
そして、何か思い出したように、咲良を見た。

「なあ、お前さぁ、学校でなんか言ってんじゃねえだろうな」

唐突な問いかけだった。
咲良は動きを止める。
男はニヤリと口の端を歪めた。

「先生とかに、変なこと吹き込んでたら……わかってるよな?」

その言葉に、咲良の喉がわずかに動いた。
答えはない。
それでも、男はそれを「肯定」として受け取るように、満足げにうなずいた。

「そうそう、お前は黙ってりゃいいんだよ。そうすりゃ何も起こらねぇ」

何も起こらない──
その言葉が、この家のすべてを物語っていた。

死神の右手は、もう震えを通り越していた。
皮膚の内側が焼けるように熱を持ち、体内のなにかがひび割れ始める。
もし、あの男に手を伸ばせば──
それは、ひとつの“仕事”として成立するのだろう。
だが、それは咲良の望みではない。
この少女は、誰にも助けを求めていない。

そして、それに手を差し伸べることは、我々の世界の規則にも反していた。
ただ、誰にも迷惑をかけず、静かにこの空間に耐えている。

死神の手は、最後まで開かれなかった。
ゆっくりと力が抜けていく。
だがその拳にこもった熱だけが、彼の中に残り続けていた。

咲良は、水を拭いたティッシュをそっと丸め、ゴミ箱へ運ぶ。
そしてまた、居間の隅に戻っていく。
ソファの男はすでに眠りかけていた。

咲良はノートを取り出し、何かを書きかけた。
けれど、途中で鉛筆が止まる。
ためらい、目を伏せる。

ページの片隅に、そっと星の印を描く。
それは三つ目の星だった。

その手元を、死神は黙って見つめていた。


咲良の鉛筆が、白い紙の上を静かにすべっていた。
かすかな擦過音が、部屋の空気を優しく揺らしている。

線は細く、頼りない。それでも彼女は、その一本一本に何かを込めるように、真剣な眼差しで紙に向かっていた。
まるで、駅のホームの端にしがみつく落ち葉が、風にさらわれまいと踏みとどまっているかのように──
今にも消えてしまいそうな世界に、かろうじて“いま”を刻みつけているかのようだった。

死神は、黙ってその様子を見つめていた。
少女の筆先が生む世界に、何かを悟らせる力があることを、彼はすでに知っている。

咲良は誰の視線にも気づかず、ただ無言で、自分だけの静寂の中に身を置いていた。
机に身を乗り出し、口元から小さく舌をのぞかせている様は、年相応の子どもそのものだった。
けれど、その絵に宿る風景は──どこまでも静かだった。

色のない鉛筆で描かれた世界。
木立の間を抜ける風。見上げた空の向こうの光。草むらに咲いた名も知らぬ花。
どれもが淡く、遠く、声なき祈りのように描かれている。

死神は、言い知れぬざわめきを胸に覚えた。
それは記録にも分類にも属さない、異質な感情だった。
静かに沈んでいく夕凪のような、それでいて心の奥底に波紋を残す“何か”。

咲良の絵は、彼にとって“記録”以上の意味を持ち始めていた。
それは冷静に観察するべき対象などではなく、手を伸ばしたくなるような、かすかなあたたかさを含んでいた。

「……ありがとう」

ぽつりと、咲良がつぶやいた。

それは本当に、小さな声だった。
ふいに鉛筆を止めた彼女が、ふと宙を見つめながら、誰にも向けず、誰にも届かぬような声で発した一言。

けれど、死神には、はっきりと届いた。
胸のどこかが、きゅう、と軋む音を立てたように感じた。

“ありがとう”──その言葉は、彼の中の“記録”に刻まれてしまった。

死神は目を細める。
咲良は、誰に向けてその言葉を投げかけたのだろう。
彼女自身にも、きっと分かっていない。

けれど、それでも──彼には、分かってしまった。

その言葉は、自分に向けられたものだと。

“見られている”と気づいたわけではない。
“守られている”と理解したわけでもない。

それでも、少女の無意識は、ほんのわずかに何かを察知していたのだろう。
目に見えない“誰か”の存在に、どこかで支えられていると──心のどこかで信じていた。

死神は、静かにその場から離れた。
咲良の描いた世界が視界から遠ざかるたびに、奇妙な痛みのような温もりが、ひと筆ずつ彼の胸に染み込んでくる。

咲良の絵の中では、風が吹いていた。
柔らかな草を揺らし、雲の影を運び、どこかへ通り過ぎていく“風”が。

その風が、死神には、どうしようもなく眩しかった。
それは、絶望の残像ではない。
かすかな希望。
見えない何かを信じるという行為の、美しさだった。

ふと、彼の右手が、知らぬ間に開かれていた。
何も奪わず、何も断ち切らないその手は、まるで“手を差し出す”という行為の意味を、初めて知ったかのようだった。


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