カイの家は王国のはずれ、小さな丘のふもとにあった。
窓を開けると、広場の鐘の音が風に乗って届く。
今日は週に一度の「パンの日」だ。
鐘が三回鳴ると、人々がわらわらと通りに出てくる。
大きなかごを抱えた女の人、袋を下げた子どもたち、肩を組んで笑う若者たち。
みんな顔が明るい。
「今日はふかふかのパンだぞ」「去年より甘くなってるらしい」なんて声があちこちで聞こえる。
カイも小走りで母と並び、配給所の列に並んだ。
「転ばないでよ」
母が笑いながら言うと、カイは胸を張った。
「わかってるよ。去年はもう子どもだったけど、今年はもう十歳だし」
列の先には、王の紋章が入った木箱が積まれ、その中から白い湯気を立てるパンが配られている。
配るのは青い制服の役人たちだ。
「王様からの贈り物だ。感謝して受け取れよ」
毎回の決まり文句。
カイはパンを受け取ると、まだ温かい表面に指を押しつけた。ふわっと沈んで、甘い香りが広がる。
夜になれば「サーカスの日」がやってくる。
大広場ではすでに舞台の組み立てが始まっていて、火の輪や大きな幕、色とりどりの旗が揺れていた。
母は夕食のスープを作りながら、「行っておいで」と言った。
カイはパンを半分ポケットに入れ、友だちのトマと広場へ向かう。
広場は光でまぶしかった。
笛や太鼓が鳴り、空には火花が散る。
大きな象がゆっくりと歩き、その背中で赤い衣装の人が手を振る。
綱渡りの男が空中で回転し、観客が一斉に歓声をあげた。
「すごいな!」
トマが口を開けたまま見上げる。
カイも拍手しながら、胸が高鳴った。
けれど、象が舞台の端を回るとき、ふと視界のすみに映ったものがあった。
それは広場の外れ、古い石橋だった。
去年の洪水で壊れてからずっと、半分が崩れたまま放置されている。
母が市場へ行くときは、遠回りをして別の橋を渡らなければならない。
そのたびに荷車が重くて大変そうだった。
カイは象の背に目を戻したけれど、心の奥に小さなひっかかりが残った。
サーカスが終わると、広場の片づけが始まる。
人々は笑いながら家に帰っていく。
「明日はまた働かなきゃな」「でも今日はいい夜だった」
そんな声があちこちから聞こえる。
家に戻ると、母が寝る準備をしていた。
「楽しかった?」
「うん……でもさ、橋はいつ直るのかな」
母は一瞬手を止め、それから苦笑した。
「さあね。王様は忙しいのよ。パンとサーカスでみんな喜んでるから」
そう言って灯りを消した。
カイはベッドの中で目を閉じた。
頭の中には、火の輪をくぐる象と、半分壊れた石橋が並んで浮かんでいた。
どちらも同じ王国の景色なのに、なぜか遠い別世界のように感じられた。
数日後、母と市場へ向かう道。
例の橋の前に来ると、母はため息をつき、大きく遠回りする道を選んだ。
荷車の車輪が石にひっかかり、ぐらっと揺れる。
カイは急いで押しながら、胸の中でつぶやいた。
(パンもサーカスもいいけど……橋だって大事じゃないか)
でも、その思いを口にする勇気はなかった。
王様のことを悪く言えば、笑われるか、怒られるかもしれない。
村の大人たちは、橋の話をしない。
ただ「パンの日まであと何日」と数えるばかりだった。
その夜、カイはノートを開き、鉛筆を握った。
字はまだ下手くそだったが、「橋を直してください」と大きく書いてみた。
でも書き終えると、ページを破り、机の中に押し込んだ。
「どうせ誰も読まない」
そう思ったからだ。
外では風が吹き、遠くでサーカスの笛の練習音が響いていた。
次のパンの日まで、あと四日。
この王国では、笑顔と歓声があふれていた。
けれど、カイの胸の奥には、まだ言葉にならない小さな問いが沈んでいた。
それは、次の物語の始まりになる問いだった。