北十字とプリオシン海岸


 「おっかさんは、ぼくをゆるしてくださるだろうか」

 カムパネルラが、ためらいながらも急いで言った。
 その声は震えていた。

 ジョバンニは黙って遠くの橙色の三角標を見つめた。
 その先に、母がいる気がした。
 あの小さな光の中で、自分のことを考えているのだろうと思った。

 「ぼくはね、おっかさんが幸せになるなら、なんでもするよ」
 「でも、いったい何が、おっかさんのいちばんの幸せなんだろう」

 カムパネルラの声には、泣きたそうな切なさが混じっていた。

 「きみのおっかさんは、悪いことなんてしてないよ」

 ジョバンニは驚いて叫んだ。
 だが、その言葉も静かな夜に溶けて消えた。

 「ぼくはよくわからない。だけど、誰でもほんとうにいいことをしたら、それがいちばんの幸せだと思うんだ。だから、おっかさんもぼくをゆるしてくれると思う」

 カムパネルラは、決心したように見えた。

 突然、車内が柔らかな光に包まれた。

 銀の川が広がり、草や露のついた石が光を放っている。
 水は音もなく、形もなく流れていた。

 その真ん中に、青白い光をまとう島が浮かんでいた。
 島の上には白い十字架が立ち、夜の空気の中で凍りついたように静かだった。
 十字架の輪郭には、金色の光が淡く射していた。

 「ハルレヤ、ハルレヤ」

 祈りの声が前からも後ろからも響いた。

 振り返ると、乗客たちは皆、正座して黒いバイブルや水晶の数珠を胸に抱き、指を組んで祈っていた。

 カムパネルラの頬は、熟したリンゴのように赤く輝いていた。

 島と十字架は、ゆっくり遠ざかっていく。
 向こう岸のすすきが風に揺れ、りんどうの花が草の中から顔を出したり隠れたりした。
 やわらかな光が夜の闇にちらちらと浮かんでいるようだった。

 白鳥の島は一度すすきの向こうに現れたが、やがて小さくなり、絵のように消えていった。

 気づくと、ジョバンニの背後に、黒い衣を纏った尼僧が立っていた。
 緑の瞳を静かに下ろし、なにかを祈るようにじっとしていた。

 やがて旅人たちはそれぞれ席に戻った。
 ふたりも新しい感情を胸に、言葉少なに顔を見合わせた。

 「もうすぐ白鳥の停車場だね」

 「うん。十一時ちょうどに着くって言ってた」

 窓の外を緑の信号がすっと過ぎていった。
 続いて、硫黄の火のような淡い灯が見え、列車はゆるやかに速度を落とした。

 プラットホームの灯がまっすぐに並び、広がっていく。

 白鳥停車場に到着した。

 秋の澄んだ夜に、時計の針は十一時を指していた。

 人々が一斉に降りていき、車内はすっかり空になった。

 「ぼくたちも降りてみようか」

 「うん、降りてみよう」

 二人は立ち上がり、足早に改札口へ向かった。

 改札には紫がかった灯りが一つだけ灯り、誰もいなかった。

 銀杏の木に囲まれた小さな広場へ出る。
 白い道が銀河の光の中へ真っすぐに伸びていた。

 ほかの旅人は見えなかった。

 二人は肩を並べて歩き出した。
 光の中に伸びる影が、道に細い線を描く。

 やがて、あの河原に着いた。

 カムパネルラは砂を一握り取り、指先で鳴らした。

 「この砂は水晶みたいだ。中で小さな火が燃えているよ」

 「うん、本当だね」

 ジョバンニはどこでそんな話を聞いたのか思い出せなかったが、頷いた。

 彼は走り寄り、水に手を浸した。

 銀河の水は透き通り、手首に触れた所が銀色に揺らめいた。
 そこから波ができ、燐光をちらちらと放ち、ほのかに燃えるように広がっていった。

 川の上流を見ると、すすきの生い茂る崖の下に白い岩が広がっていた。
 その上に、五、六人の人影が見える。
 何かを掘ったり、埋めたりしているらしかった。

 「行ってみよう」

 二人は声を合わせ、駆けだした。

 岩の入口には「プリオシン海岸」と書かれた標が立っていた。

 波がやさしく光り、すすきの穂が銀や貝殻のように揺れていた。

 そこに、背の高い眼鏡をかけた男がいた。
 長靴をはき、手帳にせわしなく何かを書きつけている。
 周囲の助手たちに、指示を出していた。

 「突起を壊さないように。スコープを使って、もっと慎重に掘ってくれ」

 白く柔らかな岩の中からは、大きな青白い獣の骨が半分掘り出されていた。
 崩れかけて、地面に横たわっているようだった。

 周囲には蹄の跡のついた岩がいくつも切り取られ、整然と番号が振られていた。

 男がふたりに話しかけた。

 「くるみの実を見ただろう? あれは百二十万年前のものだ。ここは昔、海岸だったんだ」

 「この骨は“ボス”という。今の牛の祖先にあたる」

 彼は、ここでの発掘が地層の証明に必要だと言った。

 「ぼくらの目にはここが地層に見える。でも、違う生き物の目にはどう映るだろう。そこを確かめたいんだ」

 「もう時間だよ」

 カムパネルラは時計と地図を比べながら言った。

 「では、わたしたちはこれで失礼する」

 ジョバンニは静かに頭を下げた。

 二人は白い岩の上を走り戻った。
 息は乱れず、足も疲れなかった。

 風のように走れることが、世界のどこへでも行ける気持ちにさせた。

 再び河原を越え、改札の灯りが近づいてきた。

 席に戻ると、二人は静かに腰を下ろし、窓の向こうに遠ざかる景色を見つめた。


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