それから、たくさんの時間がながれました。
海の波は何も知らないように、今日も岸にやさしく打ちよせています。
青い空には、白い雲がゆっくりと流れていきます。
人びとは忘れていきます。
けれど、父・ダイダロスだけは、あの日のことを、毎日のように思い出していました。
*
「おまえは、ほんとうに空をとんだんだな……」
ダイダロスは、朝になると海をながめて、いつも同じようにそうつぶやきます。
もう声に出さなくても、心のなかでイカロスの名前をよんでいました。
手には、あの時の羽根のかけらがにぎられていました。
イカロスがとんでいたときに、空から落ちてきた羽根です。
その白い羽根を、父はずっと持ちつづけていました。
「これは、おまえが空をこえた、しるしだよ……」
ダイダロスは、小さな声でそう言いました。
*
やがて、人びとのあいだで、こんなうわさが広まりました。
「イカロスは、太陽に手をのばしたんだって!」
「空をとんだ少年だよ!」
「落ちたけど、その心は、天までとどいたって話さ!」
だれも見ていないはずなのに、不思議なことに、イカロスの話は村から町へ、町から国へと広がっていきました。
空をとんだ少年のことを、人びとは少しずつ語りつづけたのです。
その話は、やがて歌になり、詩になり、絵にもなりました。
金色の羽根をつけた少年が、空へむかって羽ばたいていく――そんな絵が、壁や布に描かれていきました。
*
イカロスの話を聞いた子どもたちは、空を見あげました。
「ぼくも、とべたらいいな……」
「わたしも、いつか、イカロスみたいに……」
そんな声が、あちらこちらから聞こえるようになりました。
父・ダイダロスは、それを見て、ふしぎな気持ちになりました。
悲しいはずなのに、心のなかが、あたたかくなるのです。
「……あいつの夢は、終わっていないのかもしれないな」
空をとんだ少年の夢は、人びとの心のなかで生きていたのです。
*
ある日、ダイダロスは、そっと家を出ました。
そして、ゆるやかな丘をのぼり、いちばん高い場所まで歩いていきました。
そこからは、海と空が、どこまでも広がって見えます。
ポケットから、白い羽根を取り出しました。
そっと手をひらき、空にむかって差し出すと、風がそれをやさしくさらっていきました。
羽根は、くるくるとまわりながら、空にとけていくように見えました。
ダイダロスは、しばらくその場に立ちつくしていました。
空を見あげ、風の中に、息子の笑い声を感じたような気がしたのです。
*
それからのダイダロスは、少しだけ明るくなりました。
毎朝、海をながめることは変わりませんでしたが、
その顔には、ほんの少しだけ、笑みが見えるようになったのです。
「イカロス……。おまえの夢は、いまもだれかの心に生きている。
だから、もう……さびしくはないよ」
父はそうつぶやいて、そっと目をとじました。
空のむこうに、羽ばたいていた小さな背中を思い出しながら――。
おわりに
このお話は、ほんとうにあったことではありません。
でも、イカロスのように「空をとびたい」と思った人がいたのは、まちがいありません。
そして、空をとぶことは、彼にはできるようになりました。
人間は、夢をあきらめなければ、空だってこえられるのです。
イカロスの夢は、みんなの中に、今も生きているのです。