大きな溝


 その夜、私たちは森の中で眠ることにした。
 まわりに家は見あたらない。
 探すのもやめて、静かな木の下に落ち着く。

 枝は高くて広く、葉が私たちを覆ってくれた。
 露は落ちてこなかった。
 葉が屋根のように、雨の気配を遮ってくれている。

 ブリキの木こりは、無言で斧をふるう。
 薪がどんどん積まれていく。
 私はそれを集めて、火をおこした。

 炎が揺れて、あたたかさがじんわり広がる。
 冷たい空気に包まれていた指先も、すこしずつほどけていった。

 私はトトといっしょに、最後のパンを食べる。
 かばんの中に、もう何も残っていない。
 明日の朝はどうしよう――そんな思いが胸に刺さった。

「よければ、森に入って鹿を探してこようか」
 ライオンがぽつりとつぶやく。
「焼けば、君にも食べられる」

 私は目を見開いた。
 けれど、その前に別の声が飛んだ。

「やめてほしい」
 ブリキの木こりの声だった。
「もし鹿が殺されたら、私はきっと泣く」
「そうなったら、また顎が錆びてしまうんだ」

 それきり、誰も何も言わなかった。
 ライオンは黙って森の奥へ消えていく。
 すこしして戻ってきたけれど、何も語らなかった。

 たぶん、何かを食べたのだと思う。
 でも私たちは、何も聞かなかった。
 そのまま話を終わらせた。

 かかしが木の実を見つけてくれた。
 それをひとつずつ拾って、私のかごに入れてくれる。
 ただ、かかしの手はとても不器用だった。

 拾ったそばから、ぽとぽと落としてしまう。
 ふたつ拾えば、ひとつこぼれる。
 足もとには、転がった実がたくさん。

 それがなんだか可笑しくて、私は笑ってしまった。
 でも、かかしの優しさが胸に残った。

 夜になると、かかしは落ち葉を集めた。
 それを私の肩にそっとかけてくれる。
 やわらかくて、あたたかい。

 私は目を閉じた。
 葉のにおいと、火の音だけが耳に残る。
 すこしだけ安心して、眠りに落ちた。

 

 朝になって、私は川で顔を洗う。
 トトは水を飲みながら、はしゃいでいた。
 私はそれを見て、ほんの少しだけ笑った。

 それから、黄色い道を歩きはじめる。
 目指すのはエメラルドの都。
 歩けば、きっと着ける――そう信じたかった。

 

 でも、進めなくなった。

 森の先に、ぽっかりと空いた溝。
 大きくて、深い。
 道はその向こうで切れていた。

 私たちは端に立ち、そっと覗きこむ。
 底は黒くて、ごつごつとした岩が続いている。
 そこへ降りることはできそうになかった。

 どこまで深いのかも分からない。
 それが、余計にこわかった。

 私はしばらく立ち尽くした。
 旅の終わりが、ここで決まってしまう気がした。

「どうしよう……」

 私の声は、自分でも驚くほど小さかった。
 風に消えていきそうだった。

 ブリキの木こりは、じっと溝を見つめる。
 かかしも、何かを考えているようだった。
 ライオンは、たてがみを揺らしながら、目だけを動かしている。

「飛び越えるしかない」と、かかしが言った。
「でも僕たちには、羽がない」

 ライオンが一歩前へ出た。
 地面と溝の幅を、静かに見つめている。

「たぶん、跳べると思う」
 声は低く、確かだった。

「じゃあ、君の背中に乗せて運んでもらおう」
 かかしがうなずく。
「一人ずつ、安全にね」

「分かった」
 ライオンが短く答えた。
「誰から?」

「僕から行く」
 かかしが前に出る。
「もし途中で落ちたら、君はドロシーを運べなくなる。
 でも、僕なら落ちても平気だよ」

 かかしは、ためらいもなくライオンの背中に乗った。
 大きな藁の体が、ふわりと跳ねるようにおさまる。

 ライオンは静かに歩き出す。
 重さを気にしているふうでもなく、淡々とした足取りだった。

 溝の端に立つと、肩を低くしてしゃがんだ。

「走ってから飛んだ方がいいんじゃない?」
 かかしがつぶやく。

「そんなの、ライオンのやることじゃない」
 ぶっきらぼうな返事が返ってくる。
 けれど、その声には焦りもなかった。

 一瞬、空気が止まる。

 そのあとで、ライオンの体がふわりと浮いた。
 空を割って、飛ぶ。
 地面の影が、ものすごい速さで後ろに流れた。

 私は目を見張っていた。
 でも、かかしは落ちなかった。
 ライオンの背中にしっかり乗ったまま、無事に向こう側に着いた。

 ふたりの姿が、少し遠くに見える。
 私はほっと息をついた。

 ライオンはもう一度こちらに戻ってきた。
 息は荒くない。
 何事もなかったように、まっすぐ歩いてくる。

 次は、私だった。

 トトを抱きかかえながら、ライオンの背中によじ登る。
 たてがみに片手を差し入れた。
 温かくて、少し湿っていた。

「大丈夫?」
 誰かの声がした気がしたけど、私はもう返事もできなかった。

 地面が遠ざかっていく。
 風が顔に吹きつける。

 次の瞬間、私は向こう側に立っていた。
 なにが起きたのか分からないまま、足元の土を見た。
 しっかりと、地面を踏んでいた。

 トトが吠える。
 私も、すこしだけ声を漏らした。

 

 最後に、ブリキの木こり。
 ライオンは三たび戻り、彼を乗せて飛んだ。

 重たそうだったけれど、それでもちゃんと着地した。
 私は心のなかで、何度も何度も、ありがとうとつぶやいていた。

 それから、みんなで座って休む。
 ライオンの息は少し荒くて、肩が上下していた。

 私はその横顔を見て、なんだか不思議な気持ちになった。
 大きな体で、誰よりも臆病なのに。
 誰よりも先に飛んだのは、彼だった。

 

 そこから先の森は、さらに深くなっていた。
 昼なのに、光が落ちてこない。
 木々が影を重ねて、道がぬめって見える。

 誰も何も言わなかった。
 ただ、足音だけが静かに続いていく。

 不意に、なにかの音がした。
 奥の方で、かすれたうなり声のようなもの。

 私は立ち止まる。
 トトが、耳を立てて低く唸った。

「……カリダ族かもしれない」
 ライオンがぽつりとつぶやいた。

 その名前を、私は聞いたことがなかった。
 でも、聞かなくても分かる。
 それは、こわいものの名前だった。


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