天の舟――白靴の姉弟


 「あら、ここ……どこかしら。まあ、なんて、きれい」

 少女の声が、静かに車窓の光にとけた。
 黒い外套をまとった十二歳ほどの少女が、茶色い瞳を丸くして青年の腕にすがりつき、車窓の外をじっと見つめている。

 「ランカシャー……いや、コンネチカット州か……いや、空だ。ぼくらは天に来たんだ」

 青年の声は低く、けれど確かな光を帯びていた。
 「神さまが、ぼくらを召されたんだ。もう、なにもこわいことなんてない」

 そう言った彼の額には、深い皺がひとすじ。
 喜びに浮かぶその笑みに、疲れの影がかすかににじんでいた。

 青年はそっと、ぬれた黒髪の小さな男の子をジョバンニの隣に座らせた。
 少女にはカムパネルラの隣を示し、少女は素直に席に着いて、胸の前で両手をそっと組んだ。

 「ぼく……おねえさんのとこへ行くんだ」

 男の子が声をふるわせながら言った。
 その瞳は不安に揺れ、顔を青年に向けている。

 青年は何も言わずに見つめた。
 じっとその濡れた額と、ふるえる肩を見ていた。

 そのとき、少女はふいに顔を両手で覆い、しくしくと泣き出した。

 「お父さんや、お姉さんにはまだお仕事があるの。でも、すぐにいらっしゃるわ」

 青年は静かな声で語りかけた。
 「お母さんは、きっと、ずっと待っていたのよ。タダシはいま、雪の朝に、手をつないで、庭をぐるぐるまわって遊んでいるのかしら……どんな歌をうたっているのかしらって。ほんとうに心配して、待っていらっしゃる。だから、早く行って、会いに行きましょうね」

 「うん……でも、ぼく、船に乗らなきゃよかった……」

 「ええ、でも、見て、あの川。
 夏の夜、ツインクル・ツインクル・リトル・スターを歌った時、窓から白く光って見えていたわ。あそこよ、あんなに明るくて、きれい」

 少女はそっと涙を拭い、ゆっくり外を見つめた。
 青年は黙って姉弟の肩に手を置いた。

 「もう、悲しいことは何もない。
 私たちは、いい旅のなかで神さまのもとへ向かう。
 明るくて、香り高くて、立派な人たちがたくさんいる場所へ。
 そして、私たちの代わりに船に乗った人たちは、きっと無事に助けられて、お父さんやお母さん、家族のもとへ帰れるはずです」

 そのとき、隣にいた燈台守がようやく口をひらいた。

 「あなたがたは……どこから来られたんですか。なにが……?」

 青年は少しだけ笑った。

 「船が、氷山にぶつかったのです」

 「お父さんは急ぎの用で二ヶ月前に帰国されて、私たちはあとから出発しました。私は大学に通いながら、この子たちの家庭教師をしていました」

 言葉が、ゆっくりと紡がれていった。

 「十二日目……昨夜でしょうか。霧が深くて、月明かりがかすかに見えるだけでした。
 そのとき船が急に傾いて……左舷のボートは壊れて、もう皆を乗せることは不可能でした」

 「私は、せめてこの子たちだけでも、と願いました。祈って、叫びました。
 まわりの人たちはすぐに道をあけてくれて、祈ってくれた。でも……ボートまでの間にはまだ、たくさんの子供たちや家族がいたんです。
 押しのける勇気なんて、持てませんでした」

 「それでも、助けねばと……私は、神さまに背いてでも助けようと思いました。
 でも……どうしてもできませんでした。
 子どもたちがボートに押し込まれ、母親が口にキスを投げ、父親が涙をこらえて立ち尽くしている姿を見て……もう、どうしようもなかったのです」

 「そのまま、船は沈んでいきました。私は、この子たちを抱いて、せめて浮かぶことを願いました」

 「ライフブイが飛んできました。でも、つるりと滑って、遠くへ流れてしまった」

 「祈りの歌があがりました。
 何語かもわからぬまま、人々が声をそろえてうたいはじめました。
 その瞬間です。轟音とともに、水の中へ落ち、渦に巻かれ……そして、気がつくと、もうここにいたのです」

 遠い記憶を追うように、青年は空を見ていた。

 「この子たちの母は、一昨年亡くなりました。
 きっと……ボートは助かったと思います。
 熟練の水夫たちが、すばやく漕ぎ出していましたから」

 静かに、祈りの声が広がっていく。
 ジョバンニとカムパネルラの胸にも、忘れていた温かさがしずかに戻ってくる。

 (……あの大きな海は、パシフィックだったのではなかったか)
 (北の果ての氷の海。船に揺られ、風や冷たい潮と闘っている人が、いまもいる)
 (ぼくは……その人の幸いのために、なにができるのだろう)

 ジョバンニは首を垂れた。
 胸が苦しく、声にはならなかった。

 「なにが幸せか、ほんとうにはわからない」

 燈台守が、そっと言った。

 「でも、つらいことも、悲しいことも、それが正しい道を歩く途中ならば――
 のぼり坂もくだり坂も、すべて、ほんとうの幸せに近づく一歩なんです」

 「ええ。そうです」

 青年が祈るように答えた。

 「一番の幸せに至るために、すべての悲しみも……神さまのおぼしめしなのです」

 姉と弟は、席にもたれて、静かに眠っていた。
 はだしだったその足には、白くてやわらかな靴が、いつのまにか履かれていた。


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