ジョバンニが帰ってきたのは、裏町の小さな家だった。
三つ並んだ入口の、いちばん左。
その前には、空き箱に植えられた紫色のケールとアスパラガスがあった。
小さな窓には、日覆いが下りたまま。
光も影も、しずかに止まっていた。
「お母さん。ただいま。具合はどう?」
靴をぬぎながら、ジョバンニは声をかけた。
「ああ、ジョバンニ。お仕事たいへんだったでしょう。今日は涼しくてね、私はずっと調子がいいよ」
上がり框をあがると、奥の部屋に母の気配があった。
白い布をかぶり、静かに休んでいた。
ジョバンニは、そっと窓を開けた。
「角砂糖、買ってきたよ。牛乳に入れて、飲んで」
「お前が先におあがり。私はまだ、いらないの」
「お姉さん、いつ帰ったの?」
「三時ごろよ。いろいろ、してくれたわ」
「牛乳、来てないんだね?」
「……まだ来ないねえ」
「じゃあ、取りに行ってくるよ」
「そんなに急がなくていいのよ。
ほら、姉さんがトマトで何かこしらえて、そこへ置いていったわ」
「じゃあ、ぼく食べるね」
窓のそばにあった皿をとって、パンと一緒にむしゃむしゃと食べた。
「ねえ、お母さん。ぼく、お父さん、もうすぐ帰ってくると思う」
「……あたしも、そう思う。でも、どうして?」
「今朝の新聞にね、北のほうの漁が、今年はすごくよかったって」
「でもねえ……お父さんは、漁に出ていないかもしれないよ」
「そんなことないよ。お父さんが悪いことするはずない。
この前、学校に寄贈した大きな蟹の甲羅や、となかいの角。
今でも標本室にあるんだ。六年生が授業のとき、先生と一緒に教室へ持っていくよ」
「そうね。あの人は今度、ラッコの上着をお前に持ってくるって言ってたわね」
「みんな、それをからかうように言うよ。
ぼくに会うと、決まってそれを言うんだ」
「……悪口を言うの?」
「うん。でも、カムパネルラは、そんなこと言わない。
誰かが言うと、気の毒そうにするよ」
「……あの人はね、お父さんと小さいころからの友達だったのよ。
ちょうど、お前たちのように」
「だから、ぼくも連れてってもらった。カムパネルラの家に。
学校の帰りに、何度も寄ったな。
あそこには、アルコールランプで走る汽車があったんだ。
七つのレールを円くつなげて、信号や電柱もついてた。
汽車が通ると、信号の明かりが青く変わるんだ。
アルコールが切れて、石油を入れたら罐がすっかり煤けちゃったけど」
「そう……」
「今でも、毎朝新聞をまわしに行くよ。
でも、家のなかはいつも静かだ。まだ誰も起きてない」
「早いものね」
「ザウエルって犬がいるよ。しっぽがほうきみたいでね。
ぼくが行くと、鼻を鳴らしてついてくる。
町の角まで、ずっとついてくるんだ。ときどき、もっと遠くまで」
「今日は烏瓜の灯りを川に流すんでしょう。きっと犬もついていくわね」
「そう。今夜は、銀河のお祭りだよ」
「ええ。見ておいでなさい。川には入らないでね」
「うん。岸から見るだけ。一時間で帰るよ」
「もっと遊んでらっしゃい。カムパネルラさんと一緒なら、心配ないから」
「うん、きっと一緒だよ。お母さん、窓、閉めておこうか?」
「お願い。もう涼しくなってきたわ」
ジョバンニは立ち上がり、窓を閉めた。
皿とパンの袋を片づけ、勢いよく靴をはいた。
「じゃあ、一時間半で帰ってくるよ」
そう言って、暗い戸口から出ていった。