翌朝、管理会社に電話をかけた。姿見の件、と切り出すと、担当は「ああ、前の入居者さんの残置物ですね。処分費が少し——」と事務的に言った。金額を聞いて、ため息を飲み込む。家賃が安いぶん、こういう出費は覚悟していた。週末に回収できるというので、しばらく部屋に置いておくことにした。
仕事へ向かう前、つい鏡の前で立ち止まる。昨夜の指紋は、まだ白く残っている。布巾を湿らせて力いっぱい拭くと、薄くはなったが消え切らない。角度を変えると、筋のような跡が光を拾って浮かび上がる。
——気にしすぎだ。
ネクタイを締めなおし、ドアを閉める。その瞬間、背後で何かがひどく静かになった気がした。音が引いていく、あの感じ。耳の奥で残響だけがしつこく回る。
通勤の電車は混んでいて、鏡どころか自分の靴先を見るのもやっとだった。会社に着くと、総務の白井さんが「引っ越しおめでとう」とコンビニのコーヒーをくれた。彼女の笑顔はいつも少しだけ左に傾いている。「また送別会やるの? こないだの人、急に来なくなったよね」
“こないだの人”。名札が思い出せない。脳の中にぼんやりした穴が開いているようだ。
「……そうでしたね」
返事が遅れたせいか、白井さんは「寝不足?」と首をかしげた。
昼休み、給湯室でマグを洗っていると、自分の足元に落ちる影が、蛇腹みたいに二重になっているのに気づいた。蛍光灯の真下に立っても、影は二つ。ひとつはくっきりと身体に沿い、もうひとつは半歩遅れて床を這う。水の反射かと足をずらすと、遅れて動くそれがこちらに寄り添うように滲んだ。
背中に汗がじわっとにじむ。
「電球のチラつきかな」
声に出してみる。だが給湯室の蛍光灯は新品に変えたばかりで、揺らぎはない。流しの蛇口をひねる手が、わずかに震えていた。
午後の会議。プロジェクターの白いスクリーンに、進行役の影が大きく落ちる。その足元に、もう一本、筋のような影が並んでいる。進行役は気づいていないらしい。
視線を自分のノートに落とすと、紙の光沢に自分の手の影が映っている。ページをめくっても、影は紙の端をなぞるように遅れて付いてくる。まるで、見えない誰かが手首を掴んでいるみたいに。
「……」
胸の奥で、昨夜のノック音が小さく反芻した。
返して。
定時で上がると、雨が降り始めていた。コンビニでビニール傘を買い、早足で駅へ向かう。歩道の水たまりを避けるたび、足元の黒が二枚、ぶつかって歪み、ひとつに戻る。信号待ちで屈んで靴ひもを直したとき、ビニール傘の内側にうっすらと、誰かの横顔の線が曇りガラスみたいに浮かんだ。慌てて角度を変えると消える。
「疲れてる」
言い聞かせる言葉が、だんだん軽くなっていく。
アパートの前に着くころには、雨は本降りになっていた。外廊下は薄暗く、非常灯の緑色が床の水滴に揺れている。二〇三号室の前で鍵を差し込み、回す。金属が噛み合う小さな感触が指先に伝わる。
入った瞬間、空気が濃かった。湿った気配が、部屋の隅からふくらんでいる。窓を開けると、冷たい風がカーテンを膨らませた。鏡の前に、傘から落ちた雫が点々と黒く残る。
靴を脱ぎ、タオルで髪を拭きながら、昨夜と同じように鏡の前に立った。
自分の肩越しに、部屋の奥が映る。ベッド、テーブル、窓。そのどれもが、鏡の中のほうが輪郭が鮮明だ。
下へ目を落とす。影が二つある。ひとつは自分の動きに合わせて伸び縮みし、もうひとつは、床の木目に沿ってゆっくりと遅れる。遅れる、というより、追いかけてくると表現したほうが近い。
試しに、右足を一歩、横へずらしてみる。影が二つ、別々の方向に伸びた——と思った瞬間、遅れてくる方がぐにゃりと曲がり、こちらの足首に絡みつこうとするみたいに盛り上がった。
息が詰まり、反射的に後ろへ跳ぶ。足の裏が濡れていたせいで、フローリングで滑り、尻餅をつく。痛みより先に、背骨の奥が冷えた。
落ち着くために、部屋の灯りをすべて点けた。台所、洗面所、ベッドサイド。光に囲まれれば、影は薄くなる。そう思っていた。
ところが、眩しいはずの室内で、鏡の中だけは夕暮れのように薄暗い。照明の反射は表面で途切れ、奥へは届いていない。鏡のこちらが昼なら、あちらは常に黄昏時、とでも言うべきか。
「……回収は、今週末だ」
声にして確かめる。あと数日。
それでも不安は残る。コンセントに差しっぱなしの延長コードを抜き、鏡の前に小さなスタンドライトを運ぶ。ガラスにぴたりと近づけて照らす。光が表面で止まる。
白い指紋は、昨日より増えていた。五本の列が二つ、ずれて並ぶ。子どもの手と、大人の手。そんなふうにも見えた。
その夜、ノック音は時計の秒針みたいに規則的になった。
コン、コン。
コン、コン。
壁の向こうというより、鏡の向こうから。耳を当てると、木枠がわずかに震える。音の間合いは寸分違わず、三秒ごと。試しにこちらから、同じリズムで壁を指先で叩いてみた。
静寂。
十数秒の空白ののち、返ってきたのは、三回の早いノックだった。
コンコンコン。
冷たいものが足首を這い上がり、膝で固まる。遊び半分に相手をしてはいけない、という直感が背中を押す。息を詰め、電気を消した。暗闇の中で、鏡の輪郭だけが灰色に浮かぶ。
——見なければ、存在しない。
それは、子どものころからの自分のルールだった。
布団を被っても、影はついてくる。まぶたの裏に、二重の黒が揺れる。眠りに落ちる直前、誰かが耳元で、ひどく遠慮がちな声で囁いた気がした。
「返して」
声というより、息の形。自分の呼吸音の隙間に入り込んで、意味だけを残す。
目を開ける勇気は出なかった。毛布の内側で拳を握り、指の関節が軋むほど力を込める。やがて意識が遠のくと、夢の中で、影は数を増やした。
廊下の先に、鏡が並ぶ。ひとつの鏡ごとに、影が一本ずつ増える。数え切れない黒が床を這い、足首に絡みつき、膝、腰、胸へと冷たさを登らせる。息ができない。
目が覚めたのは、明け方だった。窓の外がわずかに白み、鳥の声が薄く漂う。
床に目を向けると、影はひとつだった。ほっと息を漏らし、ベッドから降りる。
その瞬間、鏡の中で、もうひとつの影が遅れて立ち上がった。
こちらの世界ではない、黄昏の部屋で。
そして、ガラスのこちら側に向かって、手を——五本の指を——ゆっくりと持ち上げた。