火の目の敵


 ローマに戻る道は、兵の靴で踏み固められていた。

 その上に、ぼくも立っていた。ようやく兵に選ばれたばかりの、十八歳の青年だ。名前はルキウス。代々ローマに仕えてきた家の出で、父も祖父も軍人だった。

 でも、戦争の本当の顔は、まだ知らなかった。

 だから――最初に「ハンニバル」という名を聞いたときも、正直、ただの蛮族の頭だろうと思った。

 アフリカのどこかの将軍。ぞろぞろと兵と象を連れてきて、アルプスを越えたらしい――そう噂で聞いたとき、誰もが笑った。あんな道を、あんな連中が越えられるわけがないと。

 けれど、笑っていたのは、ほんの一瞬だった。

 

* * *

「また、やられたのか……」

 司令官の声は、低く重かった。

 北の地から届いた報告書には、いつものように、ひどい言葉が並んでいた。包囲、壊滅、降伏。ローマ軍の旗が引き裂かれ、将軍の命が地に落ちたことが、冷たい文字で綴られていた。

 ぼくは兵舎の壁にもたれながら、その報告を聞いていた。

「信じられないよ、あんなに数で勝っていたのに……」

 となりの兵がぼそりと言った。顔にはまだ髭もまばらで、ぼくと同じく若い。

「なあ、ルキウス。あのハンニバルって、いったい何者なんだ?」

 答えようとして、言葉に詰まった。

 誰も知らなかった。将軍たちも、元老院も。彼がどうしてあんな動きをするのか、なぜ道なき道を選ぶのか。まるで、どんな戦でも先の先まで見えているかのように、敵が何をするか、こちらがどう動くかをすべて知っているようだった。

 報告によれば、敵の軍は多くはない。けれど、彼が先頭に立つだけで、なぜかすべてが崩れる。

 そして、勝っても喜ばず、負けずとも語らず――その「沈黙」こそが、恐ろしかった。

 

* * *

 出陣の命令が下ったのは、その三日後だった。

 ぼくら新兵も隊列に加えられた。目指すのは――「カンネー」の地。

 そこで、ローマの未来が決まる。皆そう言っていた。

 けれど、どこか胸がざわざわしていた。

 進軍の途中、ぼくらは焼けた村をいくつも越えた。木々はなぎ倒され、家は壊され、人の姿もなかった。道のそばに投げ出された荷車には、荷物も残されていた。

 けれど、人の気配が、どこにもなかった。

 まるで「誰か」が、すべてを予測し、先に壊していったかのように。

 

* * *

 カンネーに着いた夜、ぼくは見た。

 遠くの野営地に、かすかに揺れる焚き火の列。

 それは、整っていなかった。まばらで、不規則で、まるで隊列が乱れているようだった。

「敵は混乱している! 夜明けとともに攻める!」

 司令官が叫んだ。兵たちも、声を上げて応えた。けれど、ぼくの胸のざわめきは、ますます強くなっていった。

 その焚き火の列――何か、おかしい。

 乱れているように見えて、実は……「誘って」いるのではないか?

 誰に言うこともできず、眠れぬ夜を明かした。

 

* * *

 翌朝、戦は始まった。

 太陽は、ローマの背を照らしていた。風は追い風だった。兵は三倍、勝つ要素しかない、はずだった。

 でも――前列が動いたとき、すでにすべては始まっていた。

 敵は逃げなかった。下がるように見せて、中央を細く絞り、まるで袋の口を開けるように――ぼくらを「引き入れた」。

 次の瞬間、左右から矢が飛び、騎馬が突き、地が揺れた。

「囲まれている! 敵の――」

 誰かの叫びが、途中で途切れた。ぼくの周囲は、兵と血と叫び声であふれていた。

 将軍がどこにいるのかもわからない。命令も届かない。ただ、敵の動きだけが、なぜか「整って」いた。

 それは、戦というより、ひとつの大きな“設計図”だった。

 

* * *

 戦のあと、ぼくは命からがら川まで逃げ、泥にまみれた。

 顔を上げると、向こうの丘に、ひとりの姿が見えた。

 マントをなびかせ、じっと戦場を見つめる影。

 遠すぎて顔は見えなかった。けれど、その目だけが、ぼくに突き刺さった気がした。

 黒く、深く、燃えている――まるで「火の目」だった。

 それが、ハンニバルだったのかは、わからない。

 けれど、ぼくは思った。

 この人は、たぶん、なにも語らない。

 勝っても、語らない。なぜ戦うのか、どこへ行くのか、誰にも明かさない。

 その「沈黙」こそが、ローマを、ぼくらを、蝕んでいくのだ。


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