第一の手記 2


 そこで考え出したのは、――道化でした。

 それが、自分の、人間に対する、最後の求愛だったのです。

 自分は、人間が怖かった。

 恐ろしくて、たまらなかった。

 けれども、それでも、人間を捨てきれなかった。

 どうしても、思い切れなかった。

 憎い。けれども、恋しい。

 そんな矛盾のなかで、自分は、ずっと揺れ続けていました。

 そうして、ようやく見つけたのが――道化でした。

 笑うのです。

 笑って、人の前に出る。

 笑って、人間の輪に加わる。

 しかし、内心は、もう瀬戸際でした。綱渡りでした。

 それは演技でした。

 千番に一つの賭けでした。

 危機一髪の、死にものぐるいのサーヴィスでした。

 油汗を流して、やっと保っていました。

 子供の頃から、そうでした。

 家族の者たちに対してさえ、自分は、いつも怯えていました。

 彼等が、どんなふうに苦しみ、どんなふうに生きているのか、

 まるで見当がつかない。ただ、怖ろしい。

 その気まずさに堪えられず、早くも道化に逃げました。

 自分は、気がつけば、もう本当のことを言わない子供になっていたのです。

 一つも、本当のことを言わない子供になっていたのです。

 家族たちと一緒に写った――古い写真があります。

 皆は、まじめな顔をしています。

 父も、母も、兄も、姉も、みんな黙って正面を見つめています。

 けれども、自分だけが、笑っているのです。

 不思議な顔で笑っているのです。

 口をひんまげ、眼を細め、顔をしかめて、笑っている。

 奇妙な笑いです。

 わざとらしい、うすら哀しい、子供の笑いです。

 それもまた、自分の、幼く、悲しい、道化の一つのかたちだったのでしょう。

 また自分は、肉親たちに何か言われて、口応えをしたことが、いちども有りませんでした。

 そのわずかな小言さえ、自分には、霹靂のように強く響きました。

 ――まるで、世界の終わりのように感じたのです。

 気が狂いそうになる。

 口応えどころではない。

 その小言こそ、万世一系の「真理」のように思われる。

 自分には、その真理を行う力が無いのだから、

 もはや人間とは一緒に住めないのではないか、――そう思い込んでしまうのです。

 だから、自分には、言い争いも、自己弁解もできませんでした。

 人から悪く言われると、いかにももっとも、自分がひどい思い違いをしているような気がしてくるのです。

 いつも、その攻撃を、黙って受け、

 内心、狂うほどの恐怖を感じていました。

 誰しも、怒られていい気はしないのかも知れません。

 けれども、自分は違いました。

 怒っている人間の顔に、獅子よりも、鰐よりも、竜よりも、

 もっとおそろしい、動物の本性を見るのです。

 ふだんは、それを隠している。

 しかし、何かの拍子に、たとえば牛が草原でおっとり眠っていて、

 不意に尻尾で虻を叩き殺すように――

 怒りによって、その恐るべき正体を露わにする。

 自分は、それを見るたびに、髪の毛が逆立つほどの戦慄を覚えました。

 その本性もまた、人間の生きて行くための「資格」のひとつなのだとすれば、

 自分には、それが無い。

 ――そう思うと、たちまち、絶望に沈むのでした。

 人間に対して、いつも恐怖にふるえ、

 自分の言動に、みじんの自信も持てず、

 自分ひとりの懊悩を、胸の中の小箱に秘めて、

 その憂鬱を、神経質を、――ひた隠しに隠して、

 ただ、無邪気な楽天性を装い、

 自分は、お道化たお変人として、少しずつ完成されて行きました。

 何でもいい。

 ――笑わせておけばいいのだ。

 そうすれば、人間たちは、自分が彼等の「生活」の外にいても、

 あまり気にしないのではないかしら。

 とにかく、目障りになってはいけない。

 自分は無だ。風だ。空だ。

 ――そう思い詰めて、

 自分は、お道化によって家族を笑わせました。

 家族よりも、もっと不可解でおそろしい下男や下女にまで、

 必死の、お道化のサーヴィスをしたのです。

 ある夏の日、

 浴衣の下に赤い毛糸のセエターを着て廊下を歩きました。

 家中の者が、笑いました。

 めったに笑わない長兄までが、それを見て噴き出し、

「それあ、葉ちゃん、似合わない」

 と、たまらなく可愛いというような声で言いました。

 なに、自分だって、真夏に毛糸のセエターを着て歩くほど、

 暑さ寒さのわからない変人ではありません。

 姉の脚絆を両腕にはめて、浴衣の袖口から覗かせていたのです。

 ――それでもう、セエターを着ているように見せかけていたのでした。


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