第一の手記 5


 ――お茶目。

 自分は、いわゆる「お茶目」に見られることに、見事、成功しました。

 尊敬されることから、そっと、のがれることにも――成功しました。

 通信簿は、全学科とも十点――けれども、「操行」だけは七点だったり、六点だったりして、

 それがまた、家じゅうの笑い種となりました。

 しかし――自分の本当の姿は、

 そんな「お茶目さん」とは、およそ正反対のものだったのです。

 そのころ、もうすでに、

 自分は女中や下男たちから、哀しいことを教えられ、

 そして――犯されていました。

 幼い者に向かって、ああしたことをするのは、

 人間のしうる悪の中で、もっとも醜く、もっとも下劣で、

 そして――もっとも冷酷なものだと、

 自分はいまでは、そう信じています。

 けれども、そのときの自分は、

 ――だまって、忍びました。

 またひとつ、人間の本性を見たような気がして、

 そうして、――ちからなく笑っていました。

 本当のことを話す習慣さえあれば、

 もしかしたら、悪びれずに、それを父や母に訴えることができたのかも知れません。

 けれども、自分は――父も、母も、全部を理解することができなかった。

 人間に訴えるという手段には、まるで、希望が持てなかったのです。

 父に言っても、母に言っても、お巡りに言っても、政府に訴えても――

 どうせ最後は、世渡りに長けた人間の、

 世間に通りのいい言い分に――打ち負かされて終わりではないか。

 ――必ず片手落ちのあることは、最初から、わかりきっている。

 自分は、何も言わず、ただ忍んで、

 そしてまた、道化を演じつづけるしかない――

 そんな気持でいたのです。

 ――なんだ、人間への不信を語っているのか? へえ?

 いつからお前はクリスチャンになったんだい?――と、

 あざ笑う人もいるかもしれません。

 けれども、自分には、こう思えるのです。

 人間への不信が、すぐさま宗教へと通じる――とは、限らない。

 むしろ、そのあざ笑う人たちさえ、

 人間不信のただ中で、何の神も持たずに――平気で生きているのではありませんか。

 あれは、自分がまだ幼い頃でした。

 父の属していた政党の、れいの有名人が町に来て、演説をするというので、

 自分は、下男に連れられて劇場へ行きました。

 会場は満員で、父と親しい人々の顔も、ちらほらと見え、

 皆、拍手などして、よろこんでいる様子でした。

 けれども、演説が終わって雪の夜道を帰る途中――

 聴衆たちは三々五々かたまって、今夜の演説会を口々に――こき下ろしているのです。

 「何が何やら、さっぱり分からん」

 「父の開会の辞もひどい。あの演説家も、まるで見当ちがいだ」――

 そう怒声に似た調子で言っていたのは、

 ほかならぬ、父と親しい「同志たち」だったのです。

 それでいて、家に立ち寄ると、客間に上り込み、

 父に向かっては、「今夜は大成功でしたね」と、満面の笑みで言うのです。

 下男たちもまた、母に「とても面白かったです」と言ってけろりとしている。

 その同じ下男たちが、帰り道には――

 「演説会ほど退屈なものはない」と、顔をしかめて、ため息をついていたというのに。

 けれども、こんなのは、ほんの、ささやかな一例にすぎません。

 人間たちは――互いにあざむき合いながら、しかも、いずれも何の傷も受けず、

 それどころか、あざむき合っている事実さえ、少しも気づかない風で、

 実に見事に、あざやかに、それこそ、「清く明るくほがらかに」、

 不信のなかを生きているように、自分には見えるのです。

 けれども、自分は――あざむき合っているということ、それそのものには、

 あまり興味が持てません。

 自分だって、朝から晩まで、お道化という手段で、人間をあざむいている。

 つまりは、自分も同罪。

 それなのに、いわゆる修身教科書的な「正義」だとか「道徳」だとかには、

 どうしても、関心が持てないのです。

 自分が、難解に感じるのは、

 あざむき合っていながらも、どこか澄まして、まるで当然のように、

 清く、明るく、朗らかに生きている――

 もしくは、そう生き得るという自信を持っているみたいな人間のことです。

 自分には、その「秘訣」が、どうしてもわからなかった。

 人間は、けっきょく、自分に、その妙諦みょうていを教えてはくれなかった。

 それさえ分かっていれば――

 自分は、人間というものを、こんなに恐れなくてもすんだのでしょう。

 必死のサーヴィスなどしなくても、すんだのでしょう。

 人間の生活に背を向けて、夜ごとの地獄の苦しみに身を焦がすようなことも、無かったかも知れない。

 つまり、自分が――あの、下男下女たちの憎むべき犯罪をさえ、

 誰にも訴えることができなかったのは、

 人間への不信のためではなく、またもちろん、キリスト教の教えのせいでもなく、

 それは、ただ――

 人間たちのほうが、自分という葉蔵に対して、

 固く、その「信用」の殻を閉ざしていたからなのではないかと、

 そんなふうにも思うのです。

 あの父でさえ。あの母でさえ。

 ときおり、まるで他人のような、理解できぬ顔を、自分に向けることがあったのです。

 ――そして、その、誰にも訴えず、ただ黙っている「孤独の匂い」が、

 きっと、多くの女性たちに、本能で嗅ぎ当てられ、

 後年、さまざまなかたちで、自分が「つけこまれる」誘因のひとつになったのではないか、

 そんな気もするのです。

 ――つまり、自分は、女性にとって、

 「恋の秘密」を、守れる男だった――というわけなのでした。


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