第三の手記 10


 バアの向いに、小さい煙草屋がありました。
 その店の、十七、八の娘でした。

 ヨシちゃんと言いました。
 色が白く、八重歯がありました。
 自分が煙草を買いに行くたびに、笑いながら注意するのです。

「なぜ、いけないんだ。どうして悪いんだ。あるだけの酒を飲んで、人の子よ、憎悪を消せ消せ消せ、ってね、むかしペルシャのね――まあよそう、悲しみ疲れたるハートに希望を持ち来すは、ただ微醺をもたらす玉杯なれ、ってね。わかるかい」

「わからない」

「この野郎。キスしてやるぞ」

「してよ」

 ちっとも悪びれず、下唇をつき出すのです。
「馬鹿野郎。貞操観念……」

 けれど、その顔には、どこか凛とした、けがれなき処女の香がありました。
 ほんとうに、誰にもふれられていないにおい。

 年が明けて、寒気きびしき夜でした。
 酔ったまま煙草を買いに出て、その煙草屋の前のマンホールに落ちました。

 自分は、叫びました。
 ヨシちゃん、たすけてくれえ、と。

 ヨシちゃんは、黙って手を差しのべて、引きあげてくれました。
 右腕にできた傷の手当をしてくれました。

 そのとき、彼女は笑わず、しみじみ言いました。
「飲みすぎますわよ」

 自分は、死ぬのは平気ですが、怪我をして血を流して、そうして、不具者などになるのは、まっぴらごめんなのです。

 腕に薬を塗られているあいだ、自分は思いました。
 もう酒はいい加減にやめようかしら、と。

「やめる。あしたから、一滴も飲まない」

「ほんとう?」

「きっと、やめる。やめたら、ヨシちゃん、僕のお嫁になってくれるかい?」

 お嫁の件は、冗談のつもりでした。

「モチよ」

 モチとは、「勿論」の略でした。
 モボ、モガ。くだらない略語が、当時は流行していました。

「ようし。ゲンマンしよう。きっとやめる」

 しかし、翌日――
 自分は、やはり昼から飲みました。

 夕方になり、ふらふらと外へ出て、ヨシちゃんの店の前に立ちました。

「ヨシちゃん、ごめんね。飲んじゃった」

「あら、いやだ。酔った振りなんかして」

 ハッとしました。
 その瞬間、酔いがさめた気持ちになりました。

「いや、本当なんだ。本当に飲んだのだよ。酔った振りなんかしてるんじゃない」

「からかわないでよ。ひとがわるい」

 まるで疑おうとしないのです。

「見ればわかりそうなものだ。きょうも、お昼から飲んだのだ。ゆるしてね」

「お芝居が、うまいのねえ」

「芝居じゃあないよ、馬鹿野郎。キスしてやるぞ」

「してよ」

「いや、僕には資格が無い。お嫁にもらうのも、あきらめなくちゃならん。顔を見なさい、赤いだろう? 飲んだのだよ」

「それあ、夕陽が当っているからよ。かつごうたって、だめよ。きのう約束したんですもの。飲む筈が無いじゃないの。ゲンマンしたんですもの。飲んだなんて、ウソ、ウソ、ウソ」

 薄暗い店の中に坐って、微笑しているヨシちゃんの白い顔――
 ああ、汚れを知らぬヴァジニティは尊いものだ。

 自分は今まで、自分よりも若い処女と寝た事がありませんでした。
 結婚しよう。
 どんな大きな悲哀がそのためにあとからやって来てもよい。

 荒っぽいほどの歓楽が、生涯に一度だけあればいい。
 処女性の美しさなど、ばかばかしい詩人の感傷にすぎぬと笑っていた自分でしたが、
 やはり、それは、この世に生きて在るものなのだ。

 結婚して、春になったら、二人で自転車に乗って、青葉の滝を見に行こう――
 その場で、決意しました。

 そして、自分は、いわゆる「一本勝負」で、
 その花を、ためらいなく盗みました。

 やがて、自分たちは結婚しました。

 それにより得た歓楽は、思っていたほど、大きくはありませんでしたが、
 その後にやって来た悲哀は、実に、想像を絶するほど、大きく、冷酷なものでした。

 自分にとって、「世の中」というものは、やはり底知れず、おそろしいところでした。
 決して、そんな一本勝負などで、何から何まできまってしまうような、
 なまやさしい場所ではなかったのでした。


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