第三の手記 11


 堀木と自分。

 互いに軽蔑しあいながら付き合って、そうして、おのおのをくだらなくしてゆく。
 もし、それがこの世に於ける所謂――交友、というものの実相であるならば、
 自分と堀木との交情も、まさしくその「交友」の範疇に属していたのだと思います。

 自分が、京橋のスタンド・バアのマダムの義侠心にすがって――
 いや、女の義侠心などという言葉の使い方は、少々おかしいかも知れませんが、
 それでも都会の男女関係に限って言えば、男よりも女のほうが、たしかに、
 その義侠心とでも呼ぶべきものを多分に持っている。
 男は、たいてい、おどおどしていて、見てくれだけを飾って、けちでありました。

 そうして、その義侠心にすがって、煙草屋のヨシ子を内縁の妻とし、
 築地、隅田川近くの木造二階建ての小さなアパートの一室を借り、
 二人で暮し、酒はやめて、漫画の仕事に勤しみ、
 夕食の後には映画を観に出かけたり、帰りに喫茶店に寄ったり、
 小さな花の鉢を買ったりして――
 いや、それよりも、自分を根底から信じてくれているこの小さな花嫁の言葉を聞き、
 その動作を眺めているのが、なによりも楽しく、
 これは自分も、ひょっとしたら人間らしくなって行けるのではないか。
 悲惨な死に方などしないで済むのではないか。
 そんな甘い思いを、幽かに胸にあたため始めていた矢先に、
 堀木がまた、どこからともなく、自分の眼前にあらわれました。

「よう、色魔。……おや? ちったあ、分別くさい顔になりやがって。
 今日は、高円寺女史からのお使者なんだがね」

 そう言いかけて、ふいに声をひそめ、
 お勝手でお茶の仕度をしているヨシ子のほうを顎でしゃくって、
 大丈夫かい? と訊くので、

「かまわない。何を言ってもいい」

 自分は、落ち着いてそう答えました。

 じっさい、ヨシ子は、信頼の天才とでも言うべき女でした。
 京橋のバアのマダムとの関係はもとより、
 自分が鎌倉で起したあの事件のことを伝えても、
 ツネ子との間柄を疑おうとはしなかった。
 それは、自分の嘘が巧妙だったというのではなく、
 時には、あからさまに話すことすらあったのに、
 ヨシ子にとっては、すべてが冗談にしか聞こえない様子でした。

「相変らず、しょっていやがる。……なに、大したことじゃないがね、
 たまには高円寺のほうにも遊びに来てくれって、御伝言さ」

 忘れかけたころに、怪鳥が羽ばたいてやって来て、
 記憶の傷口を嘴でつつき破ります。
 たちまち、過去の恥と罪の記憶が、ありありと眼前に展開し、
 わあっと叫びたいほどの恐怖で、坐っていられなくなる。

「飲もうか」

 と、自分。

「よし」

 と、堀木。

 自分と堀木。
 形は似ていました。
 そっくりの人間のように感じることもありました。
 もちろんそれは、安酒を連れ立って飲み歩いている時だけの錯覚でしたが、
 いったん顔を合わせれば、みるみるうちに、
 同じ毛並の同じ形の犬に変じ、
 降雪の街を駆けまわる、といった案配になるのです。

 その日を境にして、自分たちはまた旧交をあたためたという形になり、
 京橋のあの小さなバアにも連れだって行き、
 そうして、とうとう、高円寺のシヅ子のアパートにも、
 あの泥酔の二匹の犬が、訪れ、宿泊して帰る――
 などということにまで至ったのです。

 忘れもしません。
 むし暑い夏の夜でした。
 堀木は、日暮れ頃、よれよれの浴衣を着て、築地の自分のアパートにやって来て、
 きょう、ある必要があって夏服を質入れしたのだが、
 そのことが老母に知れると具合が悪い。
 とにかく、すぐ受け出したいから金を貸してくれ、という話でした。

 あいにく自分のところにも現金が無かったので、例によって、ヨシ子に言いつけ、
 彼女の衣類を質屋に持って行かせてお金を作り、
 堀木に貸して、まだ少し残ったので、その金でヨシ子に焼酎を買わせ、
 アパートの屋上に上り、隅田川から幽かに吹いて来る、どぶ臭い風にあたりながら、
 まことに薄汚い、納涼の宴を張りました。

 そのとき自分たちは、喜劇名詞、悲劇名詞の当てっこ遊びを始めたのです。
 これは、自分の発明したもので、
 名詞には、男性名詞、女性名詞、中性名詞という別があるが、
 それと同じように、喜劇名詞と悲劇名詞という区別もあるはずだ、と。
 たとえば、汽船と汽車はいずれも悲劇名詞であり、
 市電とバスはいずれも喜劇名詞。
 なぜそうなのか――
 それがわからない者は、芸術を語るに値せぬ。
 喜劇に悲劇名詞を一つでも紛れ込ませている劇作家は、それだけで落第。
 悲劇の場合もまた、然り。
 そういった、理屈にもならないような道理をこねくりまわしては、
 むさくるしい納涼の宴は、夜ふけまでつづくのでした。


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