自分の部屋の上の小窓が、開いていました。
そこから、部屋の中が見えました。電気は点いたまま、ふたつの影がうごめいていました。
自分は、ぐらぐらと目まいがしていました。
――これもまた、人間の姿。これもまた、人間の姿。おどろくことはない。
そう胸の中で、激しい呼吸と共に呟きました。
けれども、ヨシ子を助けることも忘れ、階段の途中で立ち尽くしたまま、動けませんでした。
堀木が、大きく咳ばらいをしました。
自分は、ひとり逃げるように屋上へ駆け上がり、そのまま仰向けに寝ころびました。
雨を含んだ夏の夜空を、見上げました。
そのとき、自分を襲った感情は、怒りでもなく、嫌悪でもなく、また、悲しみでもありませんでした。
それは――もの凄い恐怖でした。
墓地の幽霊に向けるそれではなく、
神社の杉木立の奥で、白い御神体に出くわしたときのような、古代の恐怖。
四の五の言わせぬ、あらがえぬ力の気配。
荒々しく、野蛮で、神聖な、それでした。
自分の若白髪は、その夜からはじまりました。
いよいよ、すべてに自信を失い、いよいよ、底知れず人を疑いはじめました。
この世の営みから、よろこび、期待、共鳴といったすべての感情が、
永遠に、遠ざかって行きました。
――それは、自分の生涯において、決定的な事件でした。
眉間を、まっこうから割られました。
その傷は、それ以来、どんな人間に近づいても、必ず痛みました。
「同情はするが、まあ、少しは思い知ったろう」
堀木は、平然と言いました。
「もう、おれは来ない。……まるで地獄だ」
肩をすくめて、
「でも、ヨシちゃんは、ゆるしてやれ。お前だって、ろくな奴じゃないんだから。……失敬するぜ」
堀木は、そう言い捨てて、すっとその場を離れました。
気まずい場所に、長く居座るような男ではありませんでした。
自分は、起き上がりました。
ひとりで、焼酎を飲みました。
そうして――おいおい、声を出して泣きました。
いくらでも、いくらでも、泣けるのでした。
いつの間にか、背後にヨシ子が立っていました。
手には、そら豆を山盛りにした皿を持って。
ぼんやりと、立っていました。
「なんにも、しないからって……言って……」
ヨシ子は、か細い声で言いました。
「いい。何も言うな。お前は、人を疑うことを知らなかったんだ」
自分は、制しました。
「お坐り。豆を食べよう」
ふたりで並んで坐り、黙って、豆を食べました。
嗚呼――信頼は、罪なりや。
あの男は、自分に漫画を描かせては、いくらかの金を投げ置いて行く、
三十前後の、無学な、小男の商人でした。
けれども、さすがにその商人は、もう現れませんでした。
なのに、なぜだか、自分の怒りは、その商人に向かうよりも、
あの時、大きな咳ひとつせず、自分にそっと知らせに来た堀木に対して、
眠られぬ夜などに、むらむらと込み上げてくるのでした。
ゆるすも、ゆるさぬも、ありません。
ヨシ子は、信頼の天才でした。
疑うということを知らなかったのです。
――しかし、それゆえの、悲惨。
神に問う。信頼は、罪なりや?
ヨシ子が汚されたという事実よりも、
ヨシ子の信頼が汚されたという事実が、
自分には、生きていられぬほどの苦悩の種となりました。
自分のような――いやらしく、おどおどして、
ひとの顔色ばかり伺い、
人を信じる力が、とうにひび割れている者にとって、
ヨシ子の無垢な信頼は、それこそ、青葉の滝のように、
すがすがしく思われていたのです。
それが、一夜にして、黄色い汚水に変わってしまった。
見よ、ヨシ子は、その夜から、
自分の一顰一笑にさえ、気を遣うようになりました。
「おい」
と呼べば、ぴくっとして、目のやり場に困る様子でした。
どんなに笑わせようと努めても、
お道化を言っても、
ヨシ子は、おろおろし、びくびくし、やたらに敬語を使いました。
果たして、無垢の信頼心は――罪の原泉なりや。