第三の手記 15


 自分は、人妻の犯された物語の本を、あちこち探して読んでみました。
 けれども、ヨシ子ほど悲惨な犯され方をした女は、一人としていませんでした。

 どだい、これは物語にもなりません。

 あの小男の商人とヨシ子との間に、少しでも恋に似た感情があったなら、
 自分の気持ちも救われたかも知れません。
 けれども、ただ夏の一夜、ヨシ子は信頼した。
 それっきり。
 しかも、そのために自分の眉間はまっこうから割れ、声は嗄れ、若白髪が始まり、
 ヨシ子は一生おどおどしなければならなくなったのです。

 たいていの物語は、その妻の「行為」を夫が許すかどうかに重点を置いていました。
 しかし、自分にはそれは、そんなに苦しい大問題ではないように思えました。

 許す、許さぬ――
 そんな権利を留保している夫こそ、幸いなことだと思います。

 許せないなら、さっさと妻を離縁し、新しい妻を迎えればよい。
 それができなければ、いわゆる「許して」我慢する。
 どちらにせよ、夫の気持ちひとつで、すべては丸く収まるはずです。

 つまり、そのような事件は、夫にとって大きなショックであっても、
 それは「ショック」にすぎず、
 いつまでも打ち返し寄せる波とは違います。

 権利を持つ夫の怒りで、どうにでも処理できるトラブルに思えました。

 けれども、自分たちの場合、夫に何の権利もありませんでした。
 考えると、すべて自分が悪いような気がして来て、怒るどころか、何も言えず、抗えません。

 しかも、その妻は、稀な美質によって犯されたのです。
 それは、夫がかねて憧れた、無垢の信頼心――
 たまらなく可憐なものなのでした。

 無垢の信頼心は、罪なりや。

 唯一の頼みの美質にさえ疑いを抱き、
 自分はもはや何もかも分からなくなりました。
 ただ向かう先は、アルコールだけになりました。

 顔つきは極度にいやしくなり、朝から焼酎を飲み、
 歯はぼろぼろに欠けて、漫画もほとんど猥画に近いものを描くようになりました。

 はっきり言います。
 その頃から自分は春画のコピーをして密売しました。
 焼酎を買う金が欲しかったのです。

 いつも視線を逸らしておどおどしているヨシ子を見ると、
 彼女はまったく警戒を知らぬ女でした。

 あの商人とは一度きりではなかったのではないか。
 堀木は?
 いや、他の男とも?

 疑惑は疑惑を生みました。
 しかし、問いただす勇気はなく、
 不安と恐怖にのたうち回る思いで、ただ焼酎を飲み、酔い、

 わずかに卑屈な誘導尋問をおそるおそる試み、
 内心はおろかしく一喜一憂し、
 うわべだけはやたらにおどけて、

 それから、ヨシ子にいまわしい愛撫を加え、泥のように眠りこけるのでした。

 その年の暮れ、自分は夜遅く泥酔して帰宅しました。
 砂糖水を飲みたくなりましたが、ヨシ子は眠っているようでした。

 自分でお勝手に行き、砂糖壺を探し出しました。
 蓋を開けてみると、砂糖は何も入っておらず、黒く細長い紙の小箱が入っていました。

 何気なく手に取り、その箱に貼られたレッテルを見ると、愕然としました。

 レッテルは爪で半分以上掻きはがされていましたが、
 洋字の部分が残り、はっきり「DIAL」と書かれていました。

 ジアール。

 自分はその頃、もっぱら焼酎で催眠剤は使っていませんでしたが、
 不眠は持病のようなもので、催眠剤は馴染みのものでした。

 ジアールのこの箱一つは、たしかに致死量を超えているはずでした。

 まだ封は切っていませんでしたが、いつかは使うつもりで、
 こんなところに、しかもレッテルを掻きはがして隠していたに違いありません。

 可哀想に、あの子はレッテルの洋字が読めず、
 爪で半分掻きはがして、これで大丈夫と思っていたのでしょう。

 (お前に罪は無い)

 自分は音を立てぬようにそっとコップに水を満たし、
 ゆっくり箱の封を切り、すべてを一気に口に放り込みました。

 コップの水を落ち着いて飲み干し、電灯を消して寝ました。

 三昼夜、死んだように眠っていたそうです。

 医者は過失とみなして、警察への届け出を猶予しました。

 覚醒しかけ、最初に呟いたうわごとは「うちへ帰る」という言葉でした。

 うちとはどこを指すのか、自分にもよく分かりません。
 ただ、そう言い、ひどく泣いたそうです。

 やがて霧が晴れ、見ると枕元にヒラメが、
 ひどく不機嫌な顔で座っていました。


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