「このまえも、年の暮のことでしたよ」
ヒラメが言いました。
「こっちは目が廻るくらい忙しいのに、いつも年の暮をねらって、こんなことをやられた日にゃ、命がもちませんよ」
相手は、京橋の小さなバアのマダムでした。
「マダム」
と、自分は呼びました。
「うん、なに? 気がついた?」
マダムは笑って、顔をすぐそばに寄せました。
自分は、ぽろぽろと涙を流しながら、
「ヨシ子と……別れさせて」
と思わず口に出していました。
マダムは、そっと身を起こし、ため息をひとつ。
続けて自分は、まるで戯言のような、おかしなことを言っていました。
「僕は……女のいないところへ行くんだ」
ヒラメが、うわっはっはと大声で笑いました。
マダムも、くすくす笑い始めました。
自分は、赤面して苦笑いしました。涙が、なおも止まりませんでした。
「うん、そのほうがいい」
ヒラメは笑いながら言いました。
「女がいると、いけない。女のいないところ。いい発想ですな」
――女のいないところ。
自分のつまらない呟きが、のちに陰惨なかたちで現実となりました。
ヨシ子は、自分が身代わりに毒を飲んだと信じているようで、以前にも増して、おろおろするばかりとなりました。
話しかけても笑わず、口もきけない有様。
自分も部屋にいるのが耐えられず、また外へ出て、安い酒をあおるようになりました。
けれども、体はついてきませんでした。
からだはやせ細り、手足はだるく、漫画も描けず、すっかり怠け者になっていました。
ヒラメが置いていった金。
その金で、南伊豆の温泉に行ってみましたが、とてもそんな旅を楽しめる柄ではありませんでした。
ドテラにも着替えず、湯にも入らず。
外に飛び出しては、茶店のような場所に入り、焼酎を浴びるほど飲みました。
帰る頃には、すっかり体をこわしていました。
――東京に、大雪が降った夜のことでした。
自分は酔って、銀座裏を歩きながら、
ここはお国を、何百里――
と小声で繰り返し、雪を蹴散らしていました。
突然、吐きました。
それが、最初の喀血でした。
雪の上に、大きな紅の旗ができました。
自分はしゃがみこみ、よごれていない雪をすくって顔を洗いました。泣きました。
こうこは、どうこの細道じゃ――
童女の歌声が、かすかに聞こえた気がしました。
――不幸。
世の中には、不幸な人がたくさんいる。
でもその人たちは、世間に抗議ができる。世間もまた、それを理解し、同情してくれる。
自分の不幸は、違いました。
それは、すべて自分自身の罪から生まれたもの。
誰にも抗議できません。
それどころか、ひと言でも口に出せば、世間の人はヒラメと同じように、呆れ返るに決まっていました。
わがままなのか、気が弱すぎるのか、自分でもわからない。
けれど、たしかなのは、自分が――罪のかたまりだということ。
だから、どこまでも堕ちてゆくしかない。
止める方法など、ありませんでした。
自分は立ち上がり、薬を買おうと思って近くの薬屋へ入りました。
奥へ入っていくと、奥さんと目が合いました。
その瞬間、奥さんは光を浴びたように、ぱっと顔を上げました。
棒立ちのまま、こちらを見つめています。
けれど、その眼には、驚きも嫌悪もありませんでした。
むしろ、救いを求めるような、慕うような、そんな光がありました。
ああ、この人も、きっと不幸なのだ。
不幸な人は、他人の不幸にも敏感なのだ。
そう思った時、ふと、奥さんが松葉杖をついて立っているのに気がつきました。
駆け寄りたい気持ちを抑え、じっとその人を見つめていると、涙が流れました。
すると、奥さんの大きな目からも、涙が、ぽろぽろとあふれていました。