第三の手記 16


 「このまえも、年の暮のことでしたよ」

 ヒラメが言いました。

 「こっちは目が廻るくらい忙しいのに、いつも年の暮をねらって、こんなことをやられた日にゃ、命がもちませんよ」

 相手は、京橋の小さなバアのマダムでした。

 「マダム」

 と、自分は呼びました。

 「うん、なに? 気がついた?」

 マダムは笑って、顔をすぐそばに寄せました。

 自分は、ぽろぽろと涙を流しながら、

 「ヨシ子と……別れさせて」

 と思わず口に出していました。

 マダムは、そっと身を起こし、ため息をひとつ。

 続けて自分は、まるで戯言のような、おかしなことを言っていました。

 「僕は……女のいないところへ行くんだ」

 ヒラメが、うわっはっはと大声で笑いました。

 マダムも、くすくす笑い始めました。

 自分は、赤面して苦笑いしました。涙が、なおも止まりませんでした。

 「うん、そのほうがいい」

 ヒラメは笑いながら言いました。

 「女がいると、いけない。女のいないところ。いい発想ですな」

 ――女のいないところ。

 自分のつまらない呟きが、のちに陰惨なかたちで現実となりました。

 ヨシ子は、自分が身代わりに毒を飲んだと信じているようで、以前にも増して、おろおろするばかりとなりました。

 話しかけても笑わず、口もきけない有様。

 自分も部屋にいるのが耐えられず、また外へ出て、安い酒をあおるようになりました。

 けれども、体はついてきませんでした。

 からだはやせ細り、手足はだるく、漫画も描けず、すっかり怠け者になっていました。

 ヒラメが置いていった金。

 その金で、南伊豆の温泉に行ってみましたが、とてもそんな旅を楽しめる柄ではありませんでした。

 ドテラにも着替えず、湯にも入らず。

 外に飛び出しては、茶店のような場所に入り、焼酎を浴びるほど飲みました。

 帰る頃には、すっかり体をこわしていました。

 ――東京に、大雪が降った夜のことでした。

 自分は酔って、銀座裏を歩きながら、

 ここはお国を、何百里――

 と小声で繰り返し、雪を蹴散らしていました。

 突然、吐きました。

 それが、最初の喀血でした。

 雪の上に、大きな紅の旗ができました。

 自分はしゃがみこみ、よごれていない雪をすくって顔を洗いました。泣きました。

 こうこは、どうこの細道じゃ――

 童女の歌声が、かすかに聞こえた気がしました。

 ――不幸。

 世の中には、不幸な人がたくさんいる。

 でもその人たちは、世間に抗議ができる。世間もまた、それを理解し、同情してくれる。

 自分の不幸は、違いました。

 それは、すべて自分自身の罪から生まれたもの。

 誰にも抗議できません。

 それどころか、ひと言でも口に出せば、世間の人はヒラメと同じように、呆れ返るに決まっていました。

 わがままなのか、気が弱すぎるのか、自分でもわからない。

 けれど、たしかなのは、自分が――罪のかたまりだということ。

 だから、どこまでも堕ちてゆくしかない。

 止める方法など、ありませんでした。

 自分は立ち上がり、薬を買おうと思って近くの薬屋へ入りました。

 奥へ入っていくと、奥さんと目が合いました。

 その瞬間、奥さんは光を浴びたように、ぱっと顔を上げました。

 棒立ちのまま、こちらを見つめています。

 けれど、その眼には、驚きも嫌悪もありませんでした。

 むしろ、救いを求めるような、慕うような、そんな光がありました。

 ああ、この人も、きっと不幸なのだ。

 不幸な人は、他人の不幸にも敏感なのだ。

 そう思った時、ふと、奥さんが松葉杖をついて立っているのに気がつきました。

 駆け寄りたい気持ちを抑え、じっとその人を見つめていると、涙が流れました。

 すると、奥さんの大きな目からも、涙が、ぽろぽろとあふれていました。


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