第三の手記 4


 堀木は、在宅でした。
 汚い露路の奥の、二階建て。
 堀木は、二階の六畳ひと間だけを使っていて、
 下では、老父母と若い職人とが三人で、
 下駄の鼻緒を縫ったり、叩いたり、静かに製造していました。

 その日、堀木は、自分にとって新しい面を見せました。
 都会人らしい、冷たく、抜け目のない一面でした。
 いわゆるチャッカリ性というものでしょう。
 田舎者の自分は、愕然としました。
 目を見開くほどの、ずるくて、計算高いエゴイズム。
 自分のように、ただ流されてゆくだけの人間では無かったのです。

「お前には、全く呆れた。親父さんから許しは出たか。まだか」

 逃げて来た、とは言えませんでした。
 自分は、例によってごまかしました。
 いずれ気づかれるだろうに、ごまかしました。

「それは、どうにかなるさ」

「おい、笑いごとじゃないぜ。忠告するが、馬鹿もこのへんでやめるんだな。
 俺は今日は用事がある。この頃、ずいぶん忙しいんだ」

「用事って、どんな?」

「おいおい、座蒲団の糸を切るなよ」

 自分は、話しながら、ふと手遊びをしていました。
 敷いている座蒲団の隅の、ふさのような糸。
 あれを、無意識にいじり、指先で引っぱったりしていたのです。
 堀木は、座蒲団の糸一本さえ惜しいらしく、
 少しもためらわず、鋭い目をして、自分をとがめました。

 思えば、堀木はこれまで、
 自分との付き合いで、何一つ損をしていなかったのです。

 しばらくして、堀木の老母が、おしるこを二つ持って来ました。
 お盆にのせて、そっと置きました。

「あ、これは」

 と堀木は言いました。
 まるで孝行息子そのものの態度。
 老母に向かい、妙に丁寧な口ぶりで、

「すみません。おしるこですか。
 豪気だなあ。こんな心配、要らなかったのに。
 用事で、すぐ出かけるつもりだったんです。
 でも、せっかくのおふくろの手作りだ、もったいない。
 いただきます。お前もどうだい。
 おふくろが、わざわざ作ってくれたんだ。
 ああ、こいつあ、うめえや。豪気だなあ」

 本気なのか、芝居なのか。
 けれど、まんざら嘘でもないらしく、
 堀木は本当に、うまそうに食べるのです。

 自分も、それを啜りました。
 しかし、お湯の匂いがして、
 餅を口に入れてみたけれど、それは餅ではありませんでした。
 何か別のもの。けれど、自分には、それが何か分からなかった。

 決して、不味いとは思いませんでした。
 また、貧しさを笑う気持ちも、少しもありませんでした。
 そのとき自分は、ただ、
 老母の心づくしが、しみじみと胸に沁みていました。

 自分には、貧しさへの恐怖はあります。
 けれど、それを軽蔑したことは一度も無い――
 そのつもりで、生きて来ました。

 あのおしるこ。
 それを嬉しそうに食べる堀木の顔。
 自分は、そこで、都会人のつましさを見たのです。
 内と外を、ちゃんと区別して、
 表と裏の使い分けを心得ている人たちの、家庭の姿。
 それは、東京の人の、実際の生きかたでした。

 それに引きかえ、自分と来たら。
 内も外も無く、ただ、何もかもを逃げて、逃げて――
 のべつ幕無しに、現実から逃げまわっている。
 そういう薄馬鹿が、ここにただ一人、取り残されている。
 堀木にさえ、もう見捨てられたような心細さ。

 狼狽しました。
 はげた塗箸を、手の中で持てあそびながら、
 たまらなく侘しく、情けない思いを味わいました。
 いまはただ、そのときのことを、こうして記しておきたいだけです。

「わるいけど、おれは、今日は用事があるんでね」

 堀木は立ち上がりながら言いました。
 上衣を着つつ、ちらとこちらを見て、

「失敬するぜ、わるいけど」

 そのときです。
 堀木のもとに、女の訪問者がありました。

 堀木は、急に声に張りが出ました。

「や、すみません。いま、あなたのところに伺おうと思っていたのですがね。
 このひとが、突然やって来て。いや、かまわないんです。さあ、どうぞ」

 かなり慌てていたようです。
 自分が敷いていた座蒲団を外し、裏返して差し出すと、
 堀木は、それを引ったくって、また裏返しにし、
 女のひとにすすめました。

 部屋には、客用の座蒲団がたった一枚しか無かったのです。

 女は、痩せて、背の高いひとでした。
 その座蒲団には座らず、入口近くの隅に、そっと腰をおろしました。

 自分は、ぼんやり二人の会話を聞いていました。
 女は雑誌社のひとのようでした。
 以前から堀木にカットか何かを頼んでいたらしく、
 それを受け取りに来たような具合でした。

「いそぎますので」

「出来ています。もうとっくに出来ています。これです、どうぞ」

 そのとき、電報が来ました。

 堀木が開き、読むと、
 上機嫌だった顔が、みるみる険しくなりました。

「ちぇっ! お前、こりゃ、どうしたんだい」

 ヒラメからの電報でした。

「とにかく、すぐ帰ってくれ。おれが送り届けてやりたいが、
 いまは、そんな暇が無えや。
 家出して来たってのに、その、のんきな面をして」

「お宅は、どちらなのですか?」

「大久保です」

 ふいと、答えてしまいました。

「そんなら、社の近くですから」

 女は、甲州生まれ。二十八歳。
 五歳の女の子と、高円寺のアパートに住んでいると言っていました。
 夫とは死別して、三年になるのだそうです。

「あなた、ずいぶん苦労して育って来たみたいなひとね。
 よく気がきくわ。

 可哀そうに」


コメントする