堀木は、在宅でした。
汚い露路の奥の、二階建て。
堀木は、二階の六畳ひと間だけを使っていて、
下では、老父母と若い職人とが三人で、
下駄の鼻緒を縫ったり、叩いたり、静かに製造していました。
その日、堀木は、自分にとって新しい面を見せました。
都会人らしい、冷たく、抜け目のない一面でした。
いわゆるチャッカリ性というものでしょう。
田舎者の自分は、愕然としました。
目を見開くほどの、ずるくて、計算高いエゴイズム。
自分のように、ただ流されてゆくだけの人間では無かったのです。
「お前には、全く呆れた。親父さんから許しは出たか。まだか」
逃げて来た、とは言えませんでした。
自分は、例によってごまかしました。
いずれ気づかれるだろうに、ごまかしました。
「それは、どうにかなるさ」
「おい、笑いごとじゃないぜ。忠告するが、馬鹿もこのへんでやめるんだな。
俺は今日は用事がある。この頃、ずいぶん忙しいんだ」
「用事って、どんな?」
「おいおい、座蒲団の糸を切るなよ」
自分は、話しながら、ふと手遊びをしていました。
敷いている座蒲団の隅の、ふさのような糸。
あれを、無意識にいじり、指先で引っぱったりしていたのです。
堀木は、座蒲団の糸一本さえ惜しいらしく、
少しもためらわず、鋭い目をして、自分をとがめました。
思えば、堀木はこれまで、
自分との付き合いで、何一つ損をしていなかったのです。
しばらくして、堀木の老母が、おしるこを二つ持って来ました。
お盆にのせて、そっと置きました。
「あ、これは」
と堀木は言いました。
まるで孝行息子そのものの態度。
老母に向かい、妙に丁寧な口ぶりで、
「すみません。おしるこですか。
豪気だなあ。こんな心配、要らなかったのに。
用事で、すぐ出かけるつもりだったんです。
でも、せっかくのおふくろの手作りだ、もったいない。
いただきます。お前もどうだい。
おふくろが、わざわざ作ってくれたんだ。
ああ、こいつあ、うめえや。豪気だなあ」
本気なのか、芝居なのか。
けれど、まんざら嘘でもないらしく、
堀木は本当に、うまそうに食べるのです。
自分も、それを啜りました。
しかし、お湯の匂いがして、
餅を口に入れてみたけれど、それは餅ではありませんでした。
何か別のもの。けれど、自分には、それが何か分からなかった。
決して、不味いとは思いませんでした。
また、貧しさを笑う気持ちも、少しもありませんでした。
そのとき自分は、ただ、
老母の心づくしが、しみじみと胸に沁みていました。
自分には、貧しさへの恐怖はあります。
けれど、それを軽蔑したことは一度も無い――
そのつもりで、生きて来ました。
あのおしるこ。
それを嬉しそうに食べる堀木の顔。
自分は、そこで、都会人のつましさを見たのです。
内と外を、ちゃんと区別して、
表と裏の使い分けを心得ている人たちの、家庭の姿。
それは、東京の人の、実際の生きかたでした。
それに引きかえ、自分と来たら。
内も外も無く、ただ、何もかもを逃げて、逃げて――
のべつ幕無しに、現実から逃げまわっている。
そういう薄馬鹿が、ここにただ一人、取り残されている。
堀木にさえ、もう見捨てられたような心細さ。
狼狽しました。
はげた塗箸を、手の中で持てあそびながら、
たまらなく侘しく、情けない思いを味わいました。
いまはただ、そのときのことを、こうして記しておきたいだけです。
「わるいけど、おれは、今日は用事があるんでね」
堀木は立ち上がりながら言いました。
上衣を着つつ、ちらとこちらを見て、
「失敬するぜ、わるいけど」
そのときです。
堀木のもとに、女の訪問者がありました。
堀木は、急に声に張りが出ました。
「や、すみません。いま、あなたのところに伺おうと思っていたのですがね。
このひとが、突然やって来て。いや、かまわないんです。さあ、どうぞ」
かなり慌てていたようです。
自分が敷いていた座蒲団を外し、裏返して差し出すと、
堀木は、それを引ったくって、また裏返しにし、
女のひとにすすめました。
部屋には、客用の座蒲団がたった一枚しか無かったのです。
女は、痩せて、背の高いひとでした。
その座蒲団には座らず、入口近くの隅に、そっと腰をおろしました。
自分は、ぼんやり二人の会話を聞いていました。
女は雑誌社のひとのようでした。
以前から堀木にカットか何かを頼んでいたらしく、
それを受け取りに来たような具合でした。
「いそぎますので」
「出来ています。もうとっくに出来ています。これです、どうぞ」
そのとき、電報が来ました。
堀木が開き、読むと、
上機嫌だった顔が、みるみる険しくなりました。
「ちぇっ! お前、こりゃ、どうしたんだい」
ヒラメからの電報でした。
「とにかく、すぐ帰ってくれ。おれが送り届けてやりたいが、
いまは、そんな暇が無えや。
家出して来たってのに、その、のんきな面をして」
「お宅は、どちらなのですか?」
「大久保です」
ふいと、答えてしまいました。
「そんなら、社の近くですから」
女は、甲州生まれ。二十八歳。
五歳の女の子と、高円寺のアパートに住んでいると言っていました。
夫とは死別して、三年になるのだそうです。
「あなた、ずいぶん苦労して育って来たみたいなひとね。
よく気がきくわ。
可哀そうに」