第三の手記 6


 お父ちゃん。お祈りをすると、神様が何でも下さるって、ほんとう?

 自分こそ、そのお祈りをしたいと思いました。

 ああ、われに冷き意志を与え給え。われに、「人間」の本質を知らしめ給え。

 人が人を押しのけても、罪ならずや。われに、怒りのマスクを与え給え。

「うん、そう。シゲちゃんには何でも下さるだろうけれども、お父ちゃんには、駄目かも知れない」

 自分は神にさえ、おびえていました。

 神の愛は信ぜられず、神の罰だけを信じているのでした。

 信仰。それは、ただ神の笞むちを受けるために、うなだれて審判の台に向う事のような気がしているのでした。

 地獄は信ぜられても、天国の存在は、どうしても信ぜられなかったのです。

「どうして、ダメなの?」

「親の言いつけに、そむいたから」

「そう? お父ちゃんはとてもいいひとだって、みんな言うけどな」

 それは、だましているからだ。このアパートの人たち皆に、自分が好意を示されているのは、自分も知っている。

 しかし、自分は、どれほど皆を恐怖しているか。恐怖すればするほど好かれ、そうして、こちらは好かれると好かれるほど恐怖し、皆から離れて行かねばならぬ。

 この不幸な病癖を、シゲ子に説明して聞かせるのは、至難の事でした。

「シゲちゃんは、いったい、神様に何をおねだりしたいの?」

 自分は、何気無さそうに話頭を転じました。

「シゲ子はね、シゲ子の本当のお父ちゃんがほしいの」

 ぎょっとして、くらくら目まいしました。

 敵。自分がシゲ子の敵なのか、シゲ子が自分の敵なのか。

 とにかく、ここにも自分をおびやかすおそろしい大人がいたのだ。

 他人、不可解な他人、秘密だらけの他人。

 シゲ子の顔が、にわかにそのように見えて来ました。

 シゲ子だけは、と思っていたのに。

 やはり、この者も、あの「不意に虻あぶを叩き殺す牛のしっぽ」を持っていたのでした。

 自分は、それ以来、シゲ子にさえおどおどしなければならなくなりました。

「色魔しきま! いるかい?」

 堀木が、また自分のところへたずねて来るようになっていたのです。

 あの家出の日に、あれほど自分を淋しくさせた男なのに、それでも自分は拒否できず、幽かに笑って迎えるのでした。

「お前の漫画は、なかなか人気が出ているそうじゃないか。

アマチュアには、こわいもの知らずの糞度胸くそどきょうがあるからかなわねえ。

しかし、油断するなよ。デッサンが、ちっともなってやしないんだから」

 お師匠みたいな態度をさえ示すのです。

 自分のあの「お化け」の絵を、こいつに見せたら、どんな顔をするだろう。

 とれいの空転の身悶みもだえをしながら、

「それを言ってくれるな。ぎゃっという悲鳴が出る」

 堀木は、いよいよ得意そうに、

「世渡りの才能だけでは、いつかは、ボロが出るからな」

 世渡りの才能。

 ……自分には、ほんとうに苦笑の他はありませんでした。

 自分に、世渡りの才能!

 しかし、自分のように人間をおそれ、避け、ごまかしているのは、れいの俗諺ぞくげんの「さわらぬ神にたたりなし」とかいう怜悧れいり狡猾こうかつの処生訓を遵奉しているのと、同じ形だ、という事になるのでしょうか。

 ああ、人間は、お互い何も相手をわからない。

 まるっきり間違って見ていながら、無二の親友のつもりでいて。

 一生、それに気附かず、相手が死ねば、泣いて弔詞なんかを読んでいるのではないでしょうか。

 堀木は、何せ、(それはシヅ子に押してたのまれてしぶしぶ引受けたに違いないのですが)自分の家出の後仕末に立ち合ったひとなので、まるでもう、自分の更生の大恩人か、月下氷人のように振舞い、もっともらしい顔をして自分にお説教めいた事を言ったり、また、深夜、酔っぱらって訪問して泊ったり、また、五円(きまって五円でした)借りて行ったりするのでした。

「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。

これ以上は、世間が、ゆるさないからな」

 世間とは、いったい、何の事でしょう。

 人間の複数でしょうか。

 どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。

 けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが。

 しかし、堀木にそう言われて、ふと、

「世間というのは、君じゃないか」

 という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。

(それは世間が、ゆるさない)

(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)

(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)

(世間じゃない。あなたでしょう?)

(いまに世間から葬られる)

(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)

 汝なんじは、汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣あくらつ、古狸ふるだぬき性、妖婆ようば性を知れ! 

 などと、さまざまの言葉が胸中に去来したのですが。

 自分は、ただ顔の汗をハンケチで拭いて、

「冷汗ひやあせ、冷汗」

 と言って笑っただけでした。


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