ドアを、ほんの少しだけ開けて、中をのぞいて見ました。
白兎の子が、いました。
ぴょんぴょんと跳ねまわっていました。狭い部屋の中を、くるくる、輪を描くように。親子は、それを追っていました。楽しそうに。静かに。幸福そうに。
幸福なのだと思いました。
この人たちは、幸福なのだ、と。
自分のような馬鹿者が、この二人のあいだにはいって。やがて、二人を滅茶苦茶にするのだ。そう思いました。
つつましい幸福。いい親子。乱すべきでないもの。
――もし神様が、自分のような者の祈りでも、聞いてくれるなら。
いちどだけでいい。生涯に、いちどだけでいい。
祈りたい。
自分は、その場に、うずくまって合掌したい気持になりました。
そっと、ドアを閉めました。
銀座へ向かいました。
それっきり、そのアパートには、帰りませんでした。
そして、自分は――京橋のすぐ近くの、スタンド・バアの二階に。
またもや、男妾のような形で。寝そべることになりました。
世間。
どうやら、自分にも、それが、ぼんやりわかりかけて来たような気がしました。
個人と個人との争い。しかも、その場限りの勝負。その瞬間に勝てば、それでいい。
人間は、けっして、人間に服従しない。
奴隷でさえ、奴隷らしく、卑屈な、しっぺ返しをする。
だから、人間というものは、その場の一本勝負に頼るほか、生き伸びる術を持たない。
大義名分をとなえながらも、努力の標的は、つねに個人。個人を越えて、また個人。
世間の難解は、個人の難解に他ならない。
大洋オーシャンは、世間ではなく、個人なのだ。
自分は、そう思うようになっていました。
世間という大海の幻影に、おびえることから、少しだけ、解放されたのです。
以前ほど、あれこれと、さいはての心づかいをすることもなくなりました。
差し当っての必要に応じて、いくぶん図々しく、振舞えるようにもなりました。
高円寺のアパートを捨て、京橋のスタンド・バアのマダムに、たったひと言、
「わかれて来た」
そう告げました。それだけで、すべてが通じました。
一本勝負は、決まったのです。
その夜から、自分は乱暴にも、その二階に泊まりこむことになりました。
けれど、「世間」は、おそろしいはずの「世間」は、自分に何の危害も加えませんでした。
自分も、「世間」に向かって、何の弁明もしませんでした。
マダムが、その気であれば、それで、すべてが良かったのです。
自分は、その店のお客のようでもあり、亭主のようでもあり、走り使いのようでもあり、親戚の者のようでもありました。
得体の知れない存在でした。
けれど、「世間」は、少しも怪しみませんでした。
その店の常連たちも、自分を「葉ちゃん、葉ちゃん」と呼び、やさしく接してくれました。
酒も飲ませてくれました。
自分は、世の中に対して、用心深さを、しだいに失ってゆきました。
世の中というところは、思っていたほど、おそろしい場所ではない。そう思うようになりました。
自分が抱いていた恐怖は、いわば「科学の迷信」に、すぎなかったのです。
春の風には百日咳の黴菌が何十万。銭湯には失明する黴菌が何十万。床屋には禿頭病の黴菌が何十万。
省線の吊り革には、疥癬の虫がうようよ。
生焼けの肉には、さなだ虫の幼虫。ジストマ。卵。
裸足で歩けば、足の裏からガラスの破片が入り、体内を駆けめぐり、眼玉を突いて、失明する。
そんな話を、ずっと信じていました。
たしかに、黴菌は、何十万と、浮かび泳ぎうごめいているのでしょう。
けれど、それを完全に黙殺してしまえば、もはや自分とは、みじんも関わらぬ「科学の幽霊」にすぎないのだ。
そう、知るようになったのです。
お弁当の残りご飯、三粒。千万人が一日に三粒ずつ残せば、それは米何俵の無駄になる。
一日に鼻紙一枚を節約すれば、千万人で、どれだけのパルプが浮くか。
そういう「科学的統計」にも、おびえていました。
ごはんを三粒、残すたびに。鼻を一枚、かむたびに。
山ほどの米。山ほどのパルプを無駄にしたような、錯覚。
罪悪感。
しかし、それこそ「科学の嘘」「統計の嘘」「数学の嘘」でした。
三粒の米を、集められるはずがない。
あれは、掛算割算の応用問題としても、原始的で、幼稚なテーマだったのです。
電気の消えたお便所の穴。人は、何回に一度、その穴を踏みはずすか。
省線電車のすきまに、何人中の何人が足を落とすか。
ばかばかしい確率。
けれど、そんなことを「科学的事実」として教えこまれ、それを現実として受け取り、おびえ、恐れていた。
そんな昨日までの自分が、いとおしくもありました。
可笑しくもありました。
自分は、すこしずつ、世の中の実体を知ってきたのです。