第二の手記 12


 十一月の末のことでした。
 自分は、堀木と連れ立って、神田の屋台で安い酒を飲んでいました。

 堀木は、屋台を出てからも、なお酔いの勢いで。
 もう少し、どこかで飲もう、飲もうと、しつこく主張して。
 そのくせ、自分たちはもう、ほとんど一文無しでした。

 それでも――
 飲もうよ、飲もうよ、と、彼はねばるのでした。

 自分は、その時、酔って少々大胆になっており。
 それで、ふと口をすべらせたのです。

「よし、そんなら、夢の国へ連れて行く。驚くな、酒池肉林という……」

「カフエか?」

「そう」

「行こう!」

 そんなふうな、戯れの応酬の果てに。
 二人、市電に乗りました。

 堀木は、はしゃいで。
 声を張り上げるのです。

「おれは今夜、女に飢え渇いているんだ。女給にキスしてもいいか」

 自分は、堀木がそういう酔態を演じるのを。
 あまり好んでいない人間でした。

 堀木も、それを知っているので。
 わざと自分に念を押すように言うのでした。

「いいか。キスするぜ。おれの傍に坐った女給に、きっとキスして見せる。いいか」

「かまわんだろう」

「ありがたい! おれは、女に飢え渇いているんだ」

 銀座四丁目で降りて。
 その、所謂「酒池肉林」の大カフエに入りました。

 頼みの綱は、ツネ子――
 ふところには、ほとんど銭もなく。
 二人、あいているボックスに向かい合って腰を下ろした、その刹那。

 ツネ子が、もう一人の女給を連れて、走り寄って来て。
 そのもう一人が、自分の傍に。
 そしてツネ子は、堀木の傍に、ドサンと腰かけたのです。

 自分は、ハッとしました。

 ――ツネ子は、いまに、キスされる。

 惜しい、という気持ちでは、決してありませんでした。
 自分には、もともと所有欲というものは薄くて、
 たまに幽かに惜しむ思いがよぎっても、
 その所有権を敢然と主張し、人と争うほどの気力など、最初から持ち合わせてはいなかったのです。

 後に、自分は、内縁の妻が犯されるのを、黙って見ていたことさえあったほどなのです。

 自分は、人間のいざこざにはできるだけ触れたくなかった。
 その渦に巻き込まれることが、ただただ恐ろしかったのです。

 ツネ子と自分とは、ただ一夜限りの間柄でした。
 ツネ子は、自分のものなどではない。
 惜しいなどと、思い上がった欲など、到底持てるはずもありませんでした。

 しかし、ひどくハッとしました。

 自分の眼前で、堀木の猛烈なキスを受けるそのツネ子の身の上を、ふびんに思ったのです。

 堀木に汚されたツネ子は、自分と別れねばならなくなるだろう。
 しかも自分には、ツネ子を引き留めるだけの積極的な熱さなど、何一つ無かった。

 ああ、もう、これでおしまいなのだ――
 ツネ子の不幸に、一瞬ハッと胸を突かれたものの、すぐに自分は、水のように素直に諦めてしまいました。

 堀木とツネ子の顔を見比べ、にやにやと笑ったのです。

 しかし、事態は、思いもよらぬ悪い方向へと展開しました。

「やめた!」

 堀木は、口を歪めてそう言い放ち、

「さすがのおれも、こんな貧乏くさい女には……」

 困り果てたように腕組みしながら、ツネ子をじろじろ眺めては、苦笑したのでした。

「お酒を。お金は無い」

 自分は、小声でツネ子に呟きました。
 それこそ、浴びるほど飲みたいと思っているのだ、と。

 俗物の眼から見れば、ツネ子など、酔った男のキスにも値しない、ただの貧乏くさいみすぼらしい女に過ぎませんでした。

 しかし、自分にとっては、霹靂のような衝撃でありました。

 自分は、かつてないほどに、いくらでも、いくらでもお酒を飲み、ぐらぐらと酔いしれました。

 ツネ子と顔を見合わせ、哀れで儚い微笑みを交わしながら、ふと気づくのです。
 こいつは、ただ疲れていて、貧乏くさいだけの女だと。

 けれど、金のない者同士の親和――
 貧富の不和は、陳腐なようでありながら、やはりドラマの永遠のテーマのひとつであることを、今は深く思いますが――
 その親和感が、胸に静かに込み上げて来て、

 ツネ子がいとおしく思え、生まれてはじめて、わずかにではあるが、恋の心の動きを自覚しました。

 吐きました。
 前後不覚になりました。

 こんなに我を失うほどに酔ったのも、この時が初めてでした。

 目が覚めると、枕元にツネ子が座っていました。
 本所の大工さんの二階の部屋にて、眠っていたのです。

「金の切れ目が縁の切れ目、なんて言って、冗談かと思っていたけれど、本気だったのね。来てくれないもの。ややこしい切れ目だな。うちが稼いであげても、だめか」

「だめ」

 それから、女も休み、夜明けがた、女の口から「死」という言葉がはじめて出ました。

 女もまた、人間としての営みに疲れ切っていたのでしょう。

 自分もまた、世の中への恐怖、煩わしさ、金の問題、いつもの運動、女、学業……と考えると、もうこれ以上耐えて生きて行けそうもなく、

 そのひとの提案に、気軽に同意したのでした。


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