第二の手記 14


 ドアをあけて、署長室にはいったとたん――

「おう、いい男だ。これあ、お前が悪いんじゃない。こんな、いい男に産んだお前のおふくろが悪いんだ」

 そう言われました。

 色の浅黒い、大学出のような顔つきをした、まだ若い署長でした。
 柔道か剣道の選手のような、がっしりした体格で、目は笑っているようにも見えました。

 自分は、その言葉に、面くらいました。

 まるで、自分の顔の半面に、べったり赤痣でもあるような、
 いや、それどころか、どうしようもない不具者にでもなったような、
 ――みじめな気持になりました。

 この若い署長の取調べは、実にあっさりしていました。
 あの深夜の、老巡査の執拗で、隠微な、それでいて粘ついた好色の「訊問」とは、――雲泥の差でした。

 訊問が終わると、署長は検事局へ送る書類を、黙ってしたためながら、こう言いました。

「からだを丈夫にしなけりゃ、いかんね。血痰が出ているようじゃないか」

 自分は、ただ、うなずきました。

 その朝、咳が変に出て、咳のたびに、ハンケチで口を覆っていたのです。
 そのハンケチに、赤い霰のような血が、ぽつぽつとついていました。

 けれども、それは――喉から出た血ではありませんでした。

 昨夜、耳の下にできた、小さなおでき。
 それをいじって、そこから出た血でした。

 けれども、自分は、それを説明しませんでした。
 ――言わぬほうが、都合がよいような気が、ふっとしたからです。

 ですから、ただ、

「はい」

 と、伏し目がちに、殊勝らしく答えました。

 署長は、書き終えた書類に署をして、こう言いました。

「起訴になるかどうか――それは検事殿が決めることだが、
 お前の身元引受人に、電報か電話で、今日中に、横浜の検事局に来てもらうように頼んだほうがいいな。
 誰か、あるだろう。お前の保護者とか、保証人とかいうものが」

 ふと、思い出しました。

 父の東京の別荘に出入りしていた――
 渋田という、書画骨董の商人のことを。

 ずんぐりとした、独り身の四十男で、
 同郷人でもあり、父の太鼓持ちのような役も兼ねておりました。

 その渋田が、自分の学校の保証人になっていたのです。

 父はいつも、その男のことを「ヒラメ」と呼んでいました。
 ――眼つきが、平べったくて、どうにも似ていたのです。

 自分も、そう呼び慣れておりました。

 警察の電話帳を借り、ヒラメの家の番号を探しました。
 見つけて、電話をかけました。

 横浜の検事局に来てくれるよう、頼んでみました。

 ヒラメは、まるで別人のように威張った口調で応じましたが、
 それでも、とにかく引き受けてくれました。

「おい、その電話機、すぐ消毒したほうがいいぜ。
 何せ、血痰が出ているんだから」

 自分が保護室に戻ってからも、署長のその大きな声は、
 まっすぐ自分の耳まで届いてきました。

 昼過ぎ、自分は――細い麻縄で胴を縛られました。

 マントでその縄を隠すことは、許されました。
 けれども、その麻縄の端を、若いお巡りがしっかり握っており、
 二人一緒に、電車で横浜へと向かいました。

 それなのに、不思議と――自分には、少しの不安もありませんでした。

 警察の保護室も、老巡査のあの胡乱な取調べも、
 今では、どこか懐かしくさえ思えるのです。

 嗚呼、自分は、どうしてこうなのでしょう。

 罪人として縛られると、かえって、ほっとしてしまうのです。

 そして、ゆったりと、落ち着いた心になるのです。

 この時のことを、いま、こうして書き記すときも、
 自分は、本当にのびのびと――楽しい気持にさえなるのでした。

 けれども――

 その時期の、なつかしく、のびやかな思い出の只中にも、
 たったひとつだけ、冷汗三斗の、忘れがたき惨事が、ありました。

 自分は、あの薄暗い検事局の一室で、
 ごく簡単な、検事の取調べを受けました。

 検事は、四十歳前後に見える物静かな男で、
 あの、コセコセした気配の一切ない人柄でした。

 もし、自分の顔に何かしら「美貌」と呼ばれる要素があったとしても、
 それは――言わば、邪淫の美貌でしかなかったでしょうが、

 あの検事の顔には、正しい美貌――
 聡明と静謐が、そのまま像を結んだような、ひたすら潔い美しさが、ありました。

 だから、自分も、油断してしまったのです。

 用心もせず、
 ぼんやりと、口を滑らせていたのです。

 すると、急に咳が出ました。

 自分は、そっと袂からハンケチを出し、
 血のついた白布を眺めながら――ふと思いました。

 ――この咳も、利用できるのではないか?

 あさましい打算の心が、喉の奥から顔を出し、
 自分は、
 わざと、咳を二つ三つ、演じてみせたのです。

 ゴホン、ゴホン。
 贋物の芝居を、少し大袈裟に。

 ハンケチで口を覆ったまま、ちらと検事の顔をうかがいました。

 ――その瞬間です。

「ほんとうかい?」

 と、検事は――
 静かに、そして明らかに、自分を見下ろして、笑ったのです。

 あのときの笑みの、なんと恐ろしかったことか。

 静謐――けれど、紛れもなく、
 物静かな侮蔑でした。

 冷汗三斗。いいえ、それどころではありません。

 思い出すたびに、
 自分は、今でもきりきり舞いをしたくなります。

 あの中学時代――竹一に「ワザ」と言われて、背中を小突かれ、
 地獄に蹴落とされたときの心持ちすら、軽く感じられるのです。

 あれと、これ。

 二つ――
 自分の生涯に於ける、演技の大失敗の記録でございます。

 十年の刑を言い渡されたほうが、まだましだった。
 あの笑みの前では、そう思えたのです。

 ――それほどの、悔恨でした。

 結局、自分は「起訴猶予」となりました。

 けれども、少しも嬉しくはなく、
 まさに「世にもみじめ」な気持ちで、

 検事局の控室の、あの硬いベンチに腰かけておりました。

 ヒラメが迎えに来るのを、待っていたのです。

 背後の窓の向こうには、夕焼け空がひらけており――
 その空に、鴎が飛んでおりました。

 「女」という字の形を描いて。

 それがまた、自分には、なによりも切なかったのです。


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