ドアをあけて、署長室にはいったとたん――
「おう、いい男だ。これあ、お前が悪いんじゃない。こんな、いい男に産んだお前のおふくろが悪いんだ」
そう言われました。
色の浅黒い、大学出のような顔つきをした、まだ若い署長でした。
柔道か剣道の選手のような、がっしりした体格で、目は笑っているようにも見えました。
自分は、その言葉に、面くらいました。
まるで、自分の顔の半面に、べったり赤痣でもあるような、
いや、それどころか、どうしようもない不具者にでもなったような、
――みじめな気持になりました。
この若い署長の取調べは、実にあっさりしていました。
あの深夜の、老巡査の執拗で、隠微な、それでいて粘ついた好色の「訊問」とは、――雲泥の差でした。
訊問が終わると、署長は検事局へ送る書類を、黙ってしたためながら、こう言いました。
「からだを丈夫にしなけりゃ、いかんね。血痰が出ているようじゃないか」
自分は、ただ、うなずきました。
その朝、咳が変に出て、咳のたびに、ハンケチで口を覆っていたのです。
そのハンケチに、赤い霰のような血が、ぽつぽつとついていました。
けれども、それは――喉から出た血ではありませんでした。
昨夜、耳の下にできた、小さなおでき。
それをいじって、そこから出た血でした。
けれども、自分は、それを説明しませんでした。
――言わぬほうが、都合がよいような気が、ふっとしたからです。
ですから、ただ、
「はい」
と、伏し目がちに、殊勝らしく答えました。
署長は、書き終えた書類に署をして、こう言いました。
「起訴になるかどうか――それは検事殿が決めることだが、
お前の身元引受人に、電報か電話で、今日中に、横浜の検事局に来てもらうように頼んだほうがいいな。
誰か、あるだろう。お前の保護者とか、保証人とかいうものが」
ふと、思い出しました。
父の東京の別荘に出入りしていた――
渋田という、書画骨董の商人のことを。
ずんぐりとした、独り身の四十男で、
同郷人でもあり、父の太鼓持ちのような役も兼ねておりました。
その渋田が、自分の学校の保証人になっていたのです。
父はいつも、その男のことを「ヒラメ」と呼んでいました。
――眼つきが、平べったくて、どうにも似ていたのです。
自分も、そう呼び慣れておりました。
警察の電話帳を借り、ヒラメの家の番号を探しました。
見つけて、電話をかけました。
横浜の検事局に来てくれるよう、頼んでみました。
ヒラメは、まるで別人のように威張った口調で応じましたが、
それでも、とにかく引き受けてくれました。
「おい、その電話機、すぐ消毒したほうがいいぜ。
何せ、血痰が出ているんだから」
自分が保護室に戻ってからも、署長のその大きな声は、
まっすぐ自分の耳まで届いてきました。
昼過ぎ、自分は――細い麻縄で胴を縛られました。
マントでその縄を隠すことは、許されました。
けれども、その麻縄の端を、若いお巡りがしっかり握っており、
二人一緒に、電車で横浜へと向かいました。
それなのに、不思議と――自分には、少しの不安もありませんでした。
警察の保護室も、老巡査のあの胡乱な取調べも、
今では、どこか懐かしくさえ思えるのです。
嗚呼、自分は、どうしてこうなのでしょう。
罪人として縛られると、かえって、ほっとしてしまうのです。
そして、ゆったりと、落ち着いた心になるのです。
この時のことを、いま、こうして書き記すときも、
自分は、本当にのびのびと――楽しい気持にさえなるのでした。
けれども――
その時期の、なつかしく、のびやかな思い出の只中にも、
たったひとつだけ、冷汗三斗の、忘れがたき惨事が、ありました。
自分は、あの薄暗い検事局の一室で、
ごく簡単な、検事の取調べを受けました。
検事は、四十歳前後に見える物静かな男で、
あの、コセコセした気配の一切ない人柄でした。
もし、自分の顔に何かしら「美貌」と呼ばれる要素があったとしても、
それは――言わば、邪淫の美貌でしかなかったでしょうが、
あの検事の顔には、正しい美貌――
聡明と静謐が、そのまま像を結んだような、ひたすら潔い美しさが、ありました。
だから、自分も、油断してしまったのです。
用心もせず、
ぼんやりと、口を滑らせていたのです。
すると、急に咳が出ました。
自分は、そっと袂からハンケチを出し、
血のついた白布を眺めながら――ふと思いました。
――この咳も、利用できるのではないか?
あさましい打算の心が、喉の奥から顔を出し、
自分は、
わざと、咳を二つ三つ、演じてみせたのです。
ゴホン、ゴホン。
贋物の芝居を、少し大袈裟に。
ハンケチで口を覆ったまま、ちらと検事の顔をうかがいました。
――その瞬間です。
「ほんとうかい?」
と、検事は――
静かに、そして明らかに、自分を見下ろして、笑ったのです。
あのときの笑みの、なんと恐ろしかったことか。
静謐――けれど、紛れもなく、
物静かな侮蔑でした。
冷汗三斗。いいえ、それどころではありません。
思い出すたびに、
自分は、今でもきりきり舞いをしたくなります。
あの中学時代――竹一に「ワザ」と言われて、背中を小突かれ、
地獄に蹴落とされたときの心持ちすら、軽く感じられるのです。
あれと、これ。
二つ――
自分の生涯に於ける、演技の大失敗の記録でございます。
十年の刑を言い渡されたほうが、まだましだった。
あの笑みの前では、そう思えたのです。
――それほどの、悔恨でした。
結局、自分は「起訴猶予」となりました。
けれども、少しも嬉しくはなく、
まさに「世にもみじめ」な気持ちで、
検事局の控室の、あの硬いベンチに腰かけておりました。
ヒラメが迎えに来るのを、待っていたのです。
背後の窓の向こうには、夕焼け空がひらけており――
その空に、鴎が飛んでおりました。
「女」という字の形を描いて。
それがまた、自分には、なによりも切なかったのです。