けれども、まだ、その時点では――
竹一の口から出た「惚れられる」というお世辞は、まったく実現しておりませんでした。
つまり、自分は。
東北のハロルド・ロイド、でしかなかったのでした。
あの戯けた予言が、ぞっとするような真実味を帯びて。
生々しく姿を現すようになるのは、それから数年を経ての、後のことでありました。
竹一は、さらに。
自分に、もう一つの重大な贈り物をしていたのでした。
「お化けの絵だよ」
ある日。
二階へ遊びに来た折、得意そうに一枚の原色版を自分に見せて、そう言いました。
見ると、それは。
ゴッホの、あの、例の自画像に過ぎなかったのでした。
自分は、知っていました。
あまりに、よく知っておりました。
あの頃、自分たちの少年時代には、印象派の絵画が、なかば熱病のように流行していて。
ゴッホ、ゴーギャン、ルナアル、セザンヌ。
田舎の中学生ですら、その写真版を見知っているほどで。
自分もまた、幾枚となく、あの原色の絵を眺めては。
タッチの面白さに、色彩のあざやかさに、興趣をおぼえていたのですけれど。
お化け――
とは、考えたことが、いちどもありませんでした。
「では、こんなのは、どうかしら。やっぱり、お化けかしら」
自分は、本棚からモジリアニの画集を出して。
焼けた赤銅のような肌の、れいの裸婦像を、竹一に見せてみました。
「すげえなあ」
と、竹一は眼を丸くして言いました。
「地獄の馬みたい」
「やっぱり、お化けかね」
「おれも、こんなお化けの絵が、かきたいよ」
その時、自分は、不思議な感覚に襲われておりました。
――ああ。
この一群の画家たちは、人間という妖怪におびえ、
打ちのめされた果てに、ついに幻影を信じ、
白昼の自然の中に、ほんとうに妖怪を見たのだ。
しかも。
それを道化でごまかすこともなく、
見えたままを、真正直に描き出そうとしたのだ。
お化けを、ほんとうに「お化け」として描いてしまったのだ。
ここに、きっと、自分の将来の――仲間がいる。
そう思うと、胸が熱くなり、涙が出そうになりました。
「僕も、画くよ。お化けの絵を画くよ。地獄の馬を、画くよ」
なぜだか、その時。
ひどく声をひそめて、竹一にそう言ったのでした。
自分は、小学校の頃から、絵を画くのが好きでした。
見るのも、好きでした。
けれど、自分の描いた絵は。
綴り方ほどには、周囲の評判が良くありませんでした。
綴り方などは、自分にとって。
ただの道化のご挨拶のようなもので。
先生たちを狂喜させておりましたが、
自分には、まるで面白くなかったのです。
絵だけは――
(漫画などは別として)
自分なりに苦心して、表現を工夫していたのでした。
けれども、学校のお手本はつまらなく、
先生の絵もまた、ひどく下手で。
自分は、出鱈目に、さまざまの表現法を試してみるほかありませんでした。
中学校に上がって、油絵の道具を一揃え持ってはおりましたが。
印象派を手本にしても、描けるのは千代紙細工のようなのっぺりしたものばかり。
しかし、その日――
竹一の言葉にふれて、ふと、気がついたのでした。
いままでの心構えが、まるで間違っていたのだと。
美しいものを、ただ美しく描こうとする甘さ。
その、無邪気で、おろかしい欲望。
マイスターたちは、何でもないものを、美に仕立てあげ、
あるいは醜いものに、嫌悪と興味を抱きつつ、
それを隠すことなく、表現のよろこびに没入していた。
つまり――
彼らは、人の思惑など、初めから信じていなかったのだ。
竹一は、あの日、自分に。
その虎の巻を、何気なく授けてくれたのでした。
例の女の来客たちには、知られぬように。
自分は、少しずつ、自画像の制作にかかりました。
出来上がった絵を見て、自分でも、ぎょっといたしました。
それは、陰惨そのものでありました。
けれども――
これこそ、自分の本当の姿なのだと、思いました。
おもてでは、陽気に笑い、人を笑わせていても。
その底には、どうしようもなく陰鬱な心が沈んでいる。
仕方のないことでした。
そう認めて、その絵を、誰にも見せず、押入れの奥にしまいました。
あの陰惨を。
見破られるのが恐ろしく、また。
それが、ただの「新趣向のお道化」と見なされ、
笑いの種にされるのも、何よりもつらいことで。
図画の時間には、また、従来通り。
美しいものを美しく描くふりをして、凡庸なタッチを装っておりました。
ただ、竹一だけは――
自分の神経の脆さを、以前から知っておりましたし。
あの自画像も、安心して見せたのでした。
竹一は、たいへんに、ほめました。
さらに二枚、三枚と、お化けの絵を描き続け。
そして、自分は。
竹一から、もう一つの予言を与えられたのでした。
「お前は、偉い絵画きになる」
惚れられるという予言と、
偉い絵画きになるという予言と。
このふたつの、ふざけたような言葉を、
竹一の馬鹿さ加減において刻印されて。
やがて、自分は――
東京へと、出て行ったのでありました。