象の足あと


 その朝、山は静かだった。

 けれど、ただの静けさじゃない。鳥の声も、風の音も、雪を踏む音も――すべてが、息をひそめていた。

 ぼくは、ハンニバル将軍の軍に従う歩兵だった。出身はヒスパニア。けれど今は、隊長の命令で、寒さに震えるこのアルプスの山道を、何百人という兵士たちと一緒に登っている。

 ふもとを出発したのは五日前。正直、いつから寝てないのかも、もうわからない。

 ぼくらのすぐ後ろを歩くのは――象たち。

 そう、象。アフリカの熱い土地で育った、あの巨大な動物。背中には、武器や荷物を積んで、のっそりのっそりと山を登ってくる。寒さで鼻をすする兵士たちのなかで、象だけが、なぜか静かだった。

 ただ、重い足あとだけが、雪に深く刻まれていく。

「ハンニバルさまは、正気なのか……」

 誰かが、ぽつりとつぶやいた。ぼくは振り返らなかった。けれど、心のなかでは、何度も同じ言葉をくり返していた。

 ローマを倒すために、海ではなく、山を越える? こんなルートを、象と一緒に? ――正直、最初に聞いたとき、ぼくは笑った。

 でも、将軍の目は、笑っていなかった。

 戦争を知らない子どもが地図を指さして遊ぶように、ハンニバル将軍は本当にその道を選び、実行した。

 将軍の命令で、ぼくらは川を渡り、岩を砕き、谷を越え、雪の坂道を登ってきた。

 途中で何度も、仲間が凍え死んだ。象だって、すでに何頭かは力つきて倒れている。

 けれど――ぼくらはまだ進んでいる。

 いや、進まされている、と言った方が正しいかもしれない。

 将軍の命令は、いつも静かで、そして絶対だった。

 

* * *

 昼すぎ、隊は小さな岩のくぼみに身を寄せた。

「今日の進軍はここまでだ」

 先頭から命令が飛ぶと、兵士たちは倒れるように地面に座り込んだ。

 ぼくも、腰を下ろして、雪をぬぐった。指の感覚がない。けれど、今ここで寝たら、もう二度と目覚めないかもしれない。

 ふと、少し離れたところにいる将軍を見た。

 彼は、白いマントのすそを風になびかせながら、谷の向こうを見つめていた。まるで何かを待っているように。

 その目は、ぼくたちがどれだけ疲れているかなんて、見えていないみたいだった。

「なあ、おまえ。おまえもヒスパニア出身だよな?」

 となりにいた兵士が話しかけてきた。

「……そうだよ」

「じゃあ、あの戦いも見たか? 将軍が、サグントゥムを落としたときのやつ」

「……ああ」

 あのときも、ぼくらは思った。どうしてこんな戦いをするんだろう、って。あれが、ローマとの戦争のきっかけだった。

「将軍の中にはな、きっと、俺たちには見えない地図があるんだ」

 兵士はそう言った。

「どこに道があって、どこで誰が死ぬか――全部決まってるみたいに。おかしい話だよな」

 そう言って、彼は笑った。

 けれどぼくには、その言葉が、どこか恐ろしかった。

 ハンニバル将軍は、神を信じない。

 でも、将軍自身が“神に選ばれた存在”だと、信じているように見える。

 だからきっと、将軍の中では、どんな犠牲も、ただの「通り道」に過ぎないのかもしれない。

 

* * *

 夜が来た。雪がまた強くなってきた。

 象たちは固まって立っていた。あの大きな体のどこに、こんな寒さに耐える力があるのか、わからない。でも、きっと、将軍の“目”があれば、すべてが進むのだろう。

 ぼくはそのとき、気づいた。

 足元の雪に、深く刻まれた大きな足あと。それは、象のものだった。

 けれど、もしこのあと何が起きても――ぼくたちは、この足あとを信じて進むしかない。

 それが、命令なのだから。


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