第一の手記 3


 自分の父は、東京に用事の多い人でした。

 ――上野の桜木町に別荘を持ち、月の大半をそこで暮らしていたのです。

 そうして帰郷のたびには、家族はもとより、親戚の者にまで、実におびただしい土産を買って来ました。

 ――それが、父の、ひとつの趣味でした。

 ある夜、父は上京を控え、子供たちを客間に集めて言いました。

 「今度は、何が欲しい?」

 一人ひとりに、笑いながら、尋ねるのです。

 父がこんなふうに、子供たちと親しく言葉を交わすのは、めずらしいことでした。

 「葉蔵は?」

 ――と、聞かれて、自分は、口ごもってしまいました。

 何が欲しいと聞かれると、とたんに、何も欲しくなくなるのです。

 どうでもいい。

 ――どうせ、自分を楽しくさせてくれるものなんか無いのだ、という思いが、ちらと動く。

 同時に、どんなに自分の好みに合わなくても、与えられるものを拒むこともできませんでした。

 イヤなことを、イヤと言えず。

 好きなことも、おずおずと盗むように、苦く味わい。

 そうして、言い知れぬ恐怖感にもだえるのです。

 ――つまり、自分には、選ぶ力さえ無かった。

 これが、のちに到りて、いよいよ「恥の多い生涯」の、ひとつの根本原因だったようにも思われます。

 自分が、もじもじと黙っていると、父の顔が、すこし曇りました。

 「やはり、本か。浅草の仲店に、お正月の獅子舞のお獅子、――子供がかぶって遊ぶのに、ちょうどいいのがあったが、欲しくないか」

 欲しくないか――と言われると、もう、だめなのです。

 お道化た返事も、できやしない。

 お道化役者、落第でした。

 「本が、いいでしょう」

 長兄が、まじめな顔で言いました。

 「そうか」

 父は興ざめたように、手帖を閉じました。

 ――書きとめもせずに。

 何という失敗。

 自分は、父を怒らせてしまった。

 父の復讐は、きっと、おそろしいものに違いない。

 その夜、蒲団の中で震えながら考えました。

 いまのうちに、何とかして取り返さなければ。

 そうして、そっと起き出して、客間に行きました。

 ――父の机の引き出しをあけ、あの手帖を取り出し、パラパラとめくる。

 お土産のページを見つけ、鉛筆をなめて、

 「シシマイ」

 と、書きました。

 そのお獅子が、ほしかったわけではありません。

 ――かえって、本のほうがよかったくらいでした。

 けれども、父がそのお獅子を、自分に与えたいのだという気配に気づき、

 父の機嫌を直したい――ただその一心で、

 深夜の客間に忍び込むという、ちいさな冒険を、決行したのです。

 やがて、父は東京から戻り、母に大声で話していました。

 「仲店のおもちゃ屋で、手帖を開いたら、――ここに、シシマイ、と書いてある。私の字じゃない。はて? と思って、気づいた。あれは、葉蔵のいたずらですよ。にやにや黙っていたくせに、どうしても欲しくなったんだね。まったく、変った坊主です。知らん顔して、ちゃんと書いている。そんなに欲しかったのなら、そう言えばいいのに。私は、店先で笑いましたよ。――葉蔵を、早くここへ呼びなさい」

 ――そうして、また一方では、自分は下男や下女たちを洋間に集めました。

 下男のひとりに、めちゃくちゃにピアノを叩かせ、

 自分は、その出鱈目の音楽に合わせて、インデヤンの踊りを披露するのです。

 ――それは、田舎の家ながら、たいていの物はそろっていたのでした。

 皆、大笑いしました。

 次兄は、フラッシュを焚いて、その様子を撮影しました。

 やがて、その写真が現像されると、

 ――自分の腰布(それは更紗の風呂敷でした)のあいだから、ちいさな男根が、ちらと見えていた。

 それもまた、家中の笑いを誘いました。

 ――自分にとっては、これまた、意外な成功だったのかもしれません。

 自分は、そうして、笑わせていたのです。

 剽軽な言葉を、まじめな顔で言い。

 奇妙な踊りで、皆を喜ばせていました。

 ――なぜなら、自分には、ネタに困ることなどなかったからです。

 毎月、少年雑誌を十冊以上取り寄せ、

 怪談、講談、落語、江戸小咄にまで通じていました。

 ――メチャラクチャラ博士も、ナンジャモンジャ博士も、みんな自分の友達のようなものでした。

 けれども、――ああ、学校。


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