第二の手記 5


 けれども、まだ、その時点では――

 竹一の口から出た「惚れられる」というお世辞は、まったく実現しておりませんでした。

 つまり、自分は。

 東北のハロルド・ロイド、でしかなかったのでした。

 あの戯けた予言が、ぞっとするような真実味を帯びて。

 生々しく姿を現すようになるのは、それから数年を経ての、後のことでありました。

 竹一は、さらに。

 自分に、もう一つの重大な贈り物をしていたのでした。

「お化けの絵だよ」

 ある日。

 二階へ遊びに来た折、得意そうに一枚の原色版を自分に見せて、そう言いました。

 見ると、それは。

 ゴッホの、あの、例の自画像に過ぎなかったのでした。

 自分は、知っていました。

 あまりに、よく知っておりました。

 あの頃、自分たちの少年時代には、印象派の絵画が、なかば熱病のように流行していて。

 ゴッホ、ゴーギャン、ルナアル、セザンヌ。

 田舎の中学生ですら、その写真版を見知っているほどで。

 自分もまた、幾枚となく、あの原色の絵を眺めては。

 タッチの面白さに、色彩のあざやかさに、興趣をおぼえていたのですけれど。

 お化け――

 とは、考えたことが、いちどもありませんでした。

「では、こんなのは、どうかしら。やっぱり、お化けかしら」

 自分は、本棚からモジリアニの画集を出して。

 焼けた赤銅のような肌の、れいの裸婦像を、竹一に見せてみました。

「すげえなあ」

 と、竹一は眼を丸くして言いました。

「地獄の馬みたい」

「やっぱり、お化けかね」

「おれも、こんなお化けの絵が、かきたいよ」

 その時、自分は、不思議な感覚に襲われておりました。

 ――ああ。

 この一群の画家たちは、人間という妖怪におびえ、

 打ちのめされた果てに、ついに幻影を信じ、

 白昼の自然の中に、ほんとうに妖怪を見たのだ。

 しかも。

 それを道化でごまかすこともなく、

 見えたままを、真正直に描き出そうとしたのだ。

 お化けを、ほんとうに「お化け」として描いてしまったのだ。

 ここに、きっと、自分の将来の――仲間がいる。

 そう思うと、胸が熱くなり、涙が出そうになりました。

「僕も、画くよ。お化けの絵を画くよ。地獄の馬を、画くよ」

 なぜだか、その時。

 ひどく声をひそめて、竹一にそう言ったのでした。

 自分は、小学校の頃から、絵を画くのが好きでした。

 見るのも、好きでした。

 けれど、自分の描いた絵は。

 綴り方ほどには、周囲の評判が良くありませんでした。

 綴り方などは、自分にとって。

 ただの道化のご挨拶のようなもので。

 先生たちを狂喜させておりましたが、

 自分には、まるで面白くなかったのです。

 絵だけは――

 (漫画などは別として)

 自分なりに苦心して、表現を工夫していたのでした。

 けれども、学校のお手本はつまらなく、

 先生の絵もまた、ひどく下手で。

 自分は、出鱈目に、さまざまの表現法を試してみるほかありませんでした。

 中学校に上がって、油絵の道具を一揃え持ってはおりましたが。

 印象派を手本にしても、描けるのは千代紙細工のようなのっぺりしたものばかり。

 しかし、その日――

 竹一の言葉にふれて、ふと、気がついたのでした。

 いままでの心構えが、まるで間違っていたのだと。

 美しいものを、ただ美しく描こうとする甘さ。

 その、無邪気で、おろかしい欲望。

 マイスターたちは、何でもないものを、美に仕立てあげ、

 あるいは醜いものに、嫌悪と興味を抱きつつ、

 それを隠すことなく、表現のよろこびに没入していた。

 つまり――

 彼らは、人の思惑など、初めから信じていなかったのだ。

 竹一は、あの日、自分に。

 その虎の巻を、何気なく授けてくれたのでした。

 例の女の来客たちには、知られぬように。

 自分は、少しずつ、自画像の制作にかかりました。

 出来上がった絵を見て、自分でも、ぎょっといたしました。

 それは、陰惨そのものでありました。

 けれども――

 これこそ、自分の本当の姿なのだと、思いました。

 おもてでは、陽気に笑い、人を笑わせていても。

 その底には、どうしようもなく陰鬱な心が沈んでいる。

 仕方のないことでした。

 そう認めて、その絵を、誰にも見せず、押入れの奥にしまいました。

 あの陰惨を。

 見破られるのが恐ろしく、また。

 それが、ただの「新趣向のお道化」と見なされ、

 笑いの種にされるのも、何よりもつらいことで。

 図画の時間には、また、従来通り。

 美しいものを美しく描くふりをして、凡庸なタッチを装っておりました。

 ただ、竹一だけは――

 自分の神経の脆さを、以前から知っておりましたし。

 あの自画像も、安心して見せたのでした。

 竹一は、たいへんに、ほめました。

 さらに二枚、三枚と、お化けの絵を描き続け。

 そして、自分は。

 竹一から、もう一つの予言を与えられたのでした。

「お前は、偉い絵画きになる」

 惚れられるという予言と、

 偉い絵画きになるという予言と。

 このふたつの、ふざけたような言葉を、

 竹一の馬鹿さ加減において刻印されて。

 やがて、自分は――

 東京へと、出て行ったのでありました。


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