第2章 ★★Rescue──救済
死神は、砂時計を握ったまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。 砂は落ちきっている。 それは、命がひとつ終わったことを意味していた。
だが、胸の奥に残る妙な感覚が、しばらく消えなかった。 あの少女の姿が、意識の隅から離れない。 ただの監視対象であるはずの彼女が、どうしてこれほどまでに気にかかるのか。
右手の指先が、かすかに動いた。握っては、ほどけるように開く。その仕草は、彼が強い緊張にさらされたときだけ現れる、唯一の“癖”だった。
風のない空間で、黒衣の裾がかすかに揺れた。 (……記録に戻ろう) そう思いながらも、心はすでに別の場所に向かっていた。
少女──咲良のもとへ。
咲良の教室では、漢字ドリルの時間が始まっていた。 「しんせつ、の“しん”は“親”と書きます」 先生の声が教室に響く。
咲良の席は窓際の一番後ろ。 机の中にぎゅうぎゅうに詰まった教科書とノート、 そして、くたびれた筆箱には、消しゴムのかけらと短くなった鉛筆が並んでいた。
隣の席の女の子が、小さく話しかける。 「ねえ、それ、どこまで書いた?」 咲良は、少しだけ目を動かしたが、声は出さなかった。
怖いのだ。 返事をすれば、何か間違えたときに怒られるかもしれない。 小さな音でさえ、家では暴力の引き金になる。 そんな習慣が、学校にまで染みついていた。
女の子は、少し困った顔をして、視線を戻した。 咲良は、そのまま自分のノートに向き直った。 震える鉛筆の先が、「親」の字をなぞっていく。
死神は、その様子を遠巻きに見つめていた。 彼女は、誰かと話したがっている。 それでも、心の奥にある“声”が、それを許さない。
“また怒られるかもしれない” “また殴られるかもしれない” “また消えてしまうかもしれない”
恐怖が、彼女の言葉を奪っている。
──しかし。
咲良の手元のノートには、小さな変化があった。ページの端に、星のようなマークが描かれている。ぐにゃぐにゃと不格好な形ではあるが、彼女なりの“記号”だった。
そして、その下に、震える文字でこう書かれていた。
「だれか、きづいて」
……かつて、同じようにノートの隅に言葉を残した少年がいた。『たすけて』とも、『やめて』とも違う。けれど確かに、叫びだった。彼は、いつもあのメロディを──“あの曲”を口ずさんでいた。明るい曲だった。リズムもメロディも軽やかだった。
それなのに、なぜか切なく響いていた。
少年の鼻歌は、まるで誰かを救おうとする祈りのように、死神の記憶に染みついている。
今でも、風の音にまぎれてその旋律が聴こえてくることがある。
人間の時間でいえば、もう何年も前のことだというのに──。
……思い出すな。
忘れろ。
今は、この少女の記録に集中しろ。
死神は、記録を止めた。 思わず、右手を握る。 砂時計の形をしたそれが、今にも壊れそうに見えた。
──彼女は、助けを求めている。 だがそれは、誰にも届かない声だ。 死神にさえ、応える資格はない。
ただ、記録するだけ。 そう教わってきた。
だが、教わった通りに動くことが、正しいとは限らない。 そう思ってしまう“何か”が、胸の奥で疼いていた。
それが“痛み”という名の感情なのか、彼はまだ知らなかった。
チャイムが鳴る数秒前、咲良はすでに席についていた。
廊下のざわめきに耳を傾けながら、教室の隅、窓側の席でそっと手を重ねる。左手の上に、右手のひら。指先が無意識に服の裾を摘む。
押し込めている。なにかを。
音を立てないように息を吸い込むと、それだけで今日もまた、一日が始まると身体が悟った。
担任が入ってきたのはチャイムの後だった。くたびれたスーツに無精ひげ、眠そうな目の奥はどこも見ていない。
「じゃ、号令」
無表情な声。咲良は顔を上げず、立ち上がりながら周囲の足音にタイミングを合わせる。声は出さない。ただ合わせる。
誰にも気づかれずに、無事でいたい。その願いが一番の優先事項だった。
朝の会は、まるでラジオの天気予報みたいだった。乾いた情報が流れて、誰も感情を添えようとしない。先生は出席簿を読み上げ、何人かが手を上げるだけ。
咲良の番になったとき、一瞬の間が空いた。
「……山城」
「はい」
声がかすれた。でも、誰も気に留めない。よかった。
周囲の子たちは、まるで違う速さで生きているようだった。
前の席の女の子が振り向いて笑う。後ろの男の子がノートに落書きを描いている。
そういう「やりとり」の輪の外にいるのが、いつものことになっていた。
咲良の中には、たくさんの「言えなかった言葉」が降り積もっていて、それらが唇の裏でこすれて消える音だけが、自分の存在を確かめる手段のようだった。
1時間目の社会。先生は黒板に地図を貼りながら、まるでテレビ番組のナレーションみたいに話し続けている。
咲良はノートを開いたが、鉛筆はほとんど動かさなかった。書くよりも、先生の声のトーンや、誰がいつ笑ったかを記録していた。
それが、咲良の“ノート”だった。
――今、前の席の男子が小さく咳をした。
――四組の先生は怒鳴り声。
――教室の時計が少し遅れてる。
誰にも気づかれないまま、教室の中の「小さな異変」を収集していると、なぜかほんの少しだけ、居場所を感じることができた。
この世界に、自分が何も残していないわけじゃない。
そう思えた瞬間、少しだけ息が楽になった。
2時間目が終わる頃、咲良は黒板の右上に描かれた“今日の目標”に気づいた。
【なかまをたいせつに】
白いチョークで書かれたその文字が、ぼんやりとにじんで見えた。
まるで、それが自分に向けられた皮肉のようで、視界の隅で笑いそうになった。
給食の時間が近づく。
緊張は、じわじわと背中を這う。
教室にいる時間のなかで、咲良がもっとも長く息を止めるのはこのときだ。
配膳を手伝うでもなく、誰かと席を寄せ合うでもなく、ひとり分の空白を守る。
その位置を取るために、彼女はあらかじめ動線を記憶し、タイミングを見計らって席に戻る。
そうして、誰にも邪魔にならず、誰の視界にも入らない場所で、静かに箸を置く。
今日の献立はカレーだった。
スプーンを持つ手が、少し震えた。
カレーの匂いが、ひどく懐かしかったからだ。
たしか、小さな頃におばあちゃんが作ってくれたカレーは、にんじんが星の形をしていた。
それを見て笑った記憶がある。声を出して。
なのに今は――
「……いただきます」
誰かの声に続けて、咲良も口を動かす。けれど音は出なかった。祖母との思い出が頭をよぎる。
少女が帰路につく時間、陽はすでに西へ傾いていた。
オレンジ色の光が住宅街を照らし、電柱や標識の影がゆっくりと伸びていく。
その細長い影のひとつに、ランドセルを背負った少女――咲良のものがあった。
頼りなく揺れるその輪郭は、まるで自分の存在を主張しないように道を歩いていた。
咲良は、舗装のひび割れを避けるように、慎重な足取りで進んでいく。
アスファルトの隙間から顔を出す草も、まるで踏んではいけないもののように避けて通る。
その歩き方には、「気配を消す」ための知恵と工夫がにじんでいた。
通行人とも、同じ通学路の児童ともすれ違わないよう、少しだけ歩幅を調整して。
無意識のうちに、そういう距離の取り方を体に覚えさせられていたのだ。
少女の姿を、死神は遠くから見下ろしていた。
数十メートル上空――いや、実際の高度は問題ではなかった。
彼の視界は、人間の肉眼とは違っていた。
まるで空気の密度や振動を読み取るように、咲良の輪郭や表情が浮かび上がる。
吐く息の温度すら、夜の色の中で微かに可視化される。
咲良が次にどちらへ曲がるのか、何を避け、何に目を向けないか──それらがすべて、自然に彼の中に流れ込んできた。
その視線に、咲良は気づくはずもない。
だが、それでも彼女は一度、小さく肩をすくめた。
風が吹いたわけではない。足を止めたわけでもない。
ただ、ごくわずかに、背中が緊張したような気配。
それは、誰にも見られていないはずの人間が、ふと背後に意識を向けるときに似ていた。
やがて咲良は、自宅の前で立ち止まる。
ポケットから鍵を取り出し、音を立てないように慎重に鍵を回す。
その手つきには、今日がいつも通りであることを確認するような慎重さがあった。
家の中へと入っていく彼女の後ろ姿を、死神は空から見届けた。
彼女は今日、命を落とさなかった。
それだけのことが、こんなにも記録する価値を持つとは――彼自身、以前なら思いもしなかった。
窓から洩れる光が、夕闇の中に淡く浮かぶ。
それは、あたたかさを感じるほどには強くなく、冷たさを追い払えるほどにも安定していない。
死神には、その灯りがまるで“火の気のない家”のように見えた。
いや、実際には灯りはある。人もいる。だが、心があるかどうかはわからない。
そしてそれは、記録者としての自分の役割からすれば、本来どうでもいいことのはずだった。
死神はゆっくりと右手を見下ろす。
無意識のうちに握りしめていた手のひらが、僅かに汗ばんでいた。
何も掴んではいない。けれど、何かを零さぬように守っているような感覚があった。
やがて、その手を静かに開く。
空気が抜けるように、指の間を風が通り過ぎる。
何もこぼれ落ちはしない。けれど、そこに刻まれた感覚だけが残る。
それは、“今日が終わる”という実感だった。
二階の窓の灯りが、しばらくして消えた。
咲良は眠ったのだろうか。
死神には、彼女の寝息までは届かない。
それでも、カーテン越しにかすかに動く影が、布団のなかで膝を丸めている姿を想像させた。
少女の部屋のカーテンが、夜風にゆらりと揺れた。
それは、誰かがそっと手を振っているようにも見えたし、ただの風の戯れのようにも見えた。
死神はそこに意味を求めない。
だが、もし意味があるとしたら――
それは、今日がまだ完全には終わっていないという証かもしれない。
記録者に、感情はいらない。
けれど、もしそれに似た何かがあるとするなら。
それは“安堵”に近かった。
咲良が今日、何も失わずに一日を終えたことに対する、ささやかな祈りのような感覚。
たとえそれが、“何も得ていない”ことと同義であったとしても。
「……今日は、ただ、生きただけだ」
その囁きは、音ではなかった。
世界のどこにも響かず、ただ静かに、咲良の足跡の余白に刻まれていく。
誰も読まない記録のなかに、それでもひっそりと残される。
“生きていた”という事実だけが。
咲良はちゃぶ台の隅にノートを開いた。横にはキリンの形をした鉛筆削りがある。咲良のお気に入りだ。ページの余白に、昼間の風景がふっと浮かんでくる。
給食の時間だった。
隣の席の男子がパンの袋に苦戦する咲良をちらりと見て、小さく言った。
「……開けてあげよっか?」
その一言が、妙に胸に響いた。
咲良は驚いて、すぐに小さく首を振った。
でも、言葉は出なかった。
ありがとう、と言えたら何か変わったのだろうか。
彼の指先は、目の前で一瞬とまどったように動いてから、何も言わず自分の席に戻っていった。
片づけのあと、教卓のそばで先生がぽつりとつぶやいた。
「咲良さん、ちゃんと食べたんだね。えらいね」
特別でもない、でもどこかやわらかい声だった。
咲良は鉛筆を取って、ページに書きつける。
パンの袋 開けてくれようとした
声 出なくてごめん
でも うれしかったよ
先生の「えらいね」 あったかい
ありがとう
文字を並べると、肩の力がふっと抜けた。
ノートの隅には、小さな星を描いた。
これは“空の向こう”とつながるための印。
咲良が勝手に決めた、心の中だけのルールだった。
薄暗い台所で、咲良は椅子に立ち、ガスコンロのスイッチを回した。
カチカチ……ボッ。
火が灯り、小さな鍋の底にゆらゆらと熱が広がる。
棚の奥には、乾燥わかめ。冷蔵庫には何もない。
それでも、味噌はあった。
これで、どうにかなる。
(おばあちゃんの言ってたとおりだ)
ふと、懐かしい声が記憶の奥から呼び戻される。
──湯気があれば、心もあたたまるんだよ。
それは、祖母と一緒に味噌汁を作った朝だった。
「今日は玉ねぎを入れるよ。涙が出るかもしれないけど、甘くなるの」
「人生もそう。つらいことのあとには、きっといいことがあるんだよ」
祖母の笑い声が、玉ねぎを刻む音にまぎれていた。
咲良は小さな手で味噌をとき、お椀にご飯をよそう。
湯気が顔にかかると、思わず目を細めた。
(わたし、今日をつくってる)
そう思えた。
それだけで、ほんの少し救われるような気がした。
汁を注ぎ、ちゃぶ台に正座する。
両手を合わせ、小さく口を動かした。
「……いただきます」
その声は、誰にも聞こえないほど小さなものだった。
遥か上空、“時間が降り積もる層”。
無数の砂時計が並ぶ黒曜石の回廊。
時を刻む粒が、絶え間なく光の筋となって落ちていく。
そのなかで、ひとつだけ――咲良の砂時計は、静止していた。
死神はその前に立っていた。
右手の中には、止まったままの時計。
本来であれば、砂が落ちきったあとに次の名が現れる。
だが、何も現れない。
(……異常か?)
そう思ったとき、ひとつの記憶が蘇った。
それは数年前の冬。
雪の降る校舎裏で、ひとり空を見上げる少年の姿。
ポケットからくしゃくしゃの手紙を取り出し、唇を噛むようにして広げた。
おかあさんへ
ごめんね
ぼく、いままでがんばったよ
それを読み返したあと、少年はそっと目を閉じて祈った。
言葉ではない、想いのような何か。
死神は、屋根の上からそれを“感じて”いた。
次の瞬間、彼の砂時計が止まった。
(祈りが……届いた?)
理由はわからない。だが、その夜、少年は命を落とした。
名は、悠斗。
死神は、その名を胸に刻んでいた。
(同じことは……もう、繰り返さない)
そう思ったとき、自分の右手がかすかに震えているのに気づいた。
それは、感情が揺れたときだけ現れる癖だった。
「……感情は不要」
その言葉が、天井に反響する。
その言葉を、もうひとりの存在が耳にしていた。
天界の外郭、白銀の門のそばに立つ青年。
ノアは、沈黙した砂時計を見下ろしていた。
「記録にない……停滞」
彼は、まだ地上には下りない。
ただ、視線だけが黒衣の死神を追っていた。
深夜。
咲良の家の屋根瓦の上、死神の影がひっそりと立っていた。
星がまたたく空の下。
窓の内側では、咲良が小さく丸くなって眠っている。
胸にはぬいぐるみ。枕元には、あのノート。
右手がゆっくり開きかけ、また閉じられる。
(まだ“その時”ではない)
それは、記録でも規則でもない。
ただ、彼の中に生まれつつある“感覚”だった。
黒衣の裾が風に揺れる。
その視線の先、夜空の彼方で、一枚の白い羽が静かに落ちていった。
それが警告なのか、救いの予兆なのか。
答えはまだ、闇の向こうだった。