第二の手記 10


 同じ頃また自分は、銀座の或る大カフエの女給から、思いがけぬ恩を受けました。
 たった一度、逢っただけなのに。
 それでも、その恩にこだわり、やはり身動き出来ないほどの、心配やら、空おそろしさを感じていたのでした。

 その頃になると、自分も少しは変っていました。
 敢えて堀木の案内に頼らずとも、ひとりで電車にも乗れるし、また歌舞伎座にも行けるし、絣の着物を着てカフエにだってはいれるくらいの――
 多少の図々しさを、装えるようになっていたのです。

 心の中では、相変らず。
 人間の自信と暴力とを怪しみ、恐れ、悩みながらも。
 うわべだけは、少しずつ、他人と真顔の挨拶――

 いや、ちがう。
 自分はやはり、敗北のお道化の苦しい笑いを伴わずには、挨拶できないたちなのでした。
 けれども、それでも、とにかく。
 無我夢中の、へどもどの挨拶でも。
 どうやら出来るくらいの「伎倆」を。

 れいの運動で走り廻ったおかげ?
 または、女の?
 または、酒?
 けれども、おもに金銭の不自由のおかげで、修得しかけていたのです。

 どこにいても、おそろしくて。
 かえって、大カフエで、たくさんの酔客、または女給、ボーイたちにもまれ。
 まぎれ込む事が出来たら。
 自分のこの、絶えず追われているような心も、落ちつくのではなかろうか、と。

 十円持って、銀座のその大カフエに。
 ひとりで、はいりました。
 笑いながら、相手の女給に。

「十円しか無いんだからね、そのつもりで」

 と言いました。

「心配要りません」

 どこかに、関西の訛がありました。
 そうして、その一言が。
 奇妙に、自分の、震えおののいている心を、しずめてくれました。

 いいえ。
 お金の心配が、要らなくなったからではありません。
 そのひとの傍にいる事に、心配が要らないような気がしたのです。

 自分は、お酒を飲みました。
 そのひとに安心していたので。
 かえって、お道化など演じる気持も起らず。
 自分の地金の、無口で陰惨なところを、隠さず見せて。
 黙って、お酒を飲みました。

「こんなの、おすきか?」

 女は、さまざまの料理を、自分の前に並べました。
 自分は、首を振りました。

「お酒だけか? うちも飲もう」

 秋の、寒い夜でした。

 自分は、ツネ子(といったと覚えていますが、記憶が薄れ、たしかではありません。情死の相手の名前をさえ忘れているような自分なのです)に言いつけられたとおりに。
 銀座裏の、或る屋台のお鮨屋で。
 少しもおいしくない鮨を食べながら、そのひとを待っていました。

 ――そのひとの名前は、忘れても。
 その時の鮨のまずさだけは、どうした事か、はっきり記憶に残っています。

 そうして、青大将の顔に似た顔つきの、丸坊主のおやじが。
 首を振り振り、いかにも上手みたいに、ごまかしながら鮨を握っている様子も。
 眼前に見るように、鮮明に思い出されます。

 後年、電車などで、はて見た顔だ、といろいろ考え。
 なんだ、あの時の鮨屋の親爺に似ているんだ、と。
 気が附き、苦笑した事も、再三ありました。

 あのひとの名前も、また、顔かたちさえ記憶から遠ざかっている現在なお。
 あの鮨屋の親爺の顔だけは、絵にかけるほど正確に覚えているとは。
 よっぽどあの時の鮨がまずく、自分に寒さと苦痛を与えたものと思われます。

 もともと、自分は。
 うまい鮨を食わせる店というところに、ひとに連れられて行って食っても。
 うまいと思った事は、いちどもありませんでした。

 大き過ぎるのです。
 親指くらいの大きさに、キチッと握れないものかしら。
 と、いつも考えていました。

 本所の、大工さんの二階を。
 そのひとが、借りていました。

 自分は、その二階で。
 日頃の、自分の陰鬱な心を、少しも隠さず。
 ひどい歯痛に襲われてでもいるように、片手で頬をおさえながら。
 お茶を飲みました。

 そうして、自分のそんな姿態が。
 かえって、そのひとには、気にいったようでした。

 そのひともまた。
 身のまわりに、冷たい木枯しが吹いて。
 落葉だけが、舞い狂い。
 完全に、孤立している感じの女でした。

 一緒にやすみながら、そのひとは語りました。

 ――自分より、二つ年上であること。
 ――故郷は、広島。
 ――あたしには、主人があるのよ。
 ――広島で、床屋さんをしていた。
 ――昨年の春、一緒に東京へ、家出して逃げて来た。
 ――主人は、東京で、まともな仕事をせず。
 ――そのうちに、詐欺罪に問われ。
 ――刑務所にいるのよ。
 ――あたしは毎日、何やらかやら差し入れしに、刑務所へ通っていたのだけれども。
 ――あすから、やめます。

 そんなふうに、物語るのでしたが。
 自分は、どういうものか。
 女の身の上噺というものには、少しも興味を持てないたちで。

 それは、女の語り方の下手なせいか。
 つまり、話の重点の置き方を、間違っているせいなのか。
 とにかく、自分には。
 つねに、馬耳東風なのでありました。


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