第二の手記 11


 侘びしい。
 自分には、女の千万言の身の上噺よりも。
 その、一言の呟きのほうに、共感をそそられるに違いないと、期待しておりました。

 けれども、この世の中の女から。
 ついにいちども、自分はその言葉を聞いた事がない。
 それを、奇怪とも。不思議とも。
 感じております。

 しかし、そのひとは。
 言葉で、「侘びしい」とは言いませんでしたが。
 無言の、ひどい侘びしさを。
 からだの外郭に、一寸くらいの幅の気流みたいに、まとっていて。

 そのひとに寄り添うと。
 こちらのからだも、その気流に包まれるのです。

 自分の持っている。
 多少トゲトゲした陰鬱の気流と、程よく溶け合い。
 まるで――
 水底の岩に落ち附く、枯葉のように。

 わが身は、恐怖からも。
 不安からも。
 離れる事が出来るのでした。

 あの、白痴の淫売婦たちの。
 ふところの中で、安心してぐっすり眠る思いとは。
 また、全く異なっていて――
 (だいいち、あのプロステチュウトたちは、陽気でした)

 その、詐欺罪の犯人の妻と過した一夜は。
 自分にとって、幸福な。
 ――こんな、大それた言葉を。
 なんの躊躇も無く、肯定して使用する事は。
 自分のこの全手記に於いて、再び無いはずです。

 幸福な、解放せられた夜でした。

 けれども。
 ただ一夜でした。

 朝、眼が覚めて。
 はね起き、自分はもとの軽薄な。
 装える、お道化者になっていました。

 弱虫は。
 幸福をさえ、おそれるものです。

 綿で、怪我をするんです。
 幸福に、傷つけられる事もあるんです。

 傷つけられないうちに。
 早く、このまま、わかれたいと、あせる。

 それでまた。
 れいの、お道化の煙幕を張りめぐらすのでした。

 金の切れめが、縁の切れめ――などと、よく言われますが。
 あれは、逆なのです。
 たしか、自分はそんな馬鹿げたことを言い出して。
 ツネ子を、くすりと笑わせたような記憶があります。

 金が無くなると、女に振られる――そういう意味じゃない。
 そうじゃなくて。
 男に金が無くなると、男は、ただおのずから意気銷沈して。
 笑う声にも力が無くなり。
 妙に、ひがみ始め。
 ついには破れかぶれになって。
 男のほうから、女を振るのです。

 振って、振って。
 半狂乱になって、振り抜くのです。

 金沢大辞林という本に、そう書いてあった。
 ――可哀そうに。
 僕にも、その気持、わかるがね。

 たしかに。
 そんなふうの放言をして。
 ツネ子を、噴き出させたのです。

 長居は無用、おそれありと、顔も洗わず。
 素早くその場を引き上げたのですが――
 あの時、自分が何気なく洩らした「金の切れめが縁の切れめ」という。
 出鱈目のひと言が。
 後になって、思いがけないひっかかりを生じました。

 それから、ひとつき。
 自分は、あの夜の恩人とは逢いませんでした。

 別れて日が経つにつれ。
 よろこびは、すこしずつ薄れて行き。
 かりそめの恩を受けた事が、かえって恐ろしくなって。
 自分勝手に、ひどい束縛を感じ始めたのです。

 あの夜のカフエのお勘定を。
 全部ツネ子に負担させた、という――ただの俗事さえ。
 だんだん、気になり始めて。

 ツネ子もまた、下宿の娘や。
 あの女子高等師範と同じように。
 自分を脅迫するだけの女のように思われてきて。
 遠く離れていながらも。
 絶えず、自分はツネ子におびえておりました。

 その上、自分は。
 一緒に休んだ事のある女に、また逢うとなると。
 その時に、いきなり烈火の如く怒鳴られそうな気がして。
 たまらなく、逢うのが頗るおっくうな性質でありました。

 それゆえ、銀座は、自然に。
 敬遠の形になって行きました。

 けれども。
 その「おっくうがる」という自分の性質は。
 決して、狡猾さから来ていたのではないのです。

 女性というものが、――
 休んでからのことと、朝、起きてからのこととのあいだに。
 一つの、塵ほどのつながりさえも持たせず。
 完全な忘却の如く、二つの世界を見事に切断させて生きているという。
 その、不思議な現象を。

 当時の自分は、まだよく。
 呑みこんでいなかった、ただそれだけのことでした。


コメントする