侘びしい。
自分には、女の千万言の身の上噺よりも。
その、一言の呟きのほうに、共感をそそられるに違いないと、期待しておりました。
けれども、この世の中の女から。
ついにいちども、自分はその言葉を聞いた事がない。
それを、奇怪とも。不思議とも。
感じております。
しかし、そのひとは。
言葉で、「侘びしい」とは言いませんでしたが。
無言の、ひどい侘びしさを。
からだの外郭に、一寸くらいの幅の気流みたいに、まとっていて。
そのひとに寄り添うと。
こちらのからだも、その気流に包まれるのです。
自分の持っている。
多少トゲトゲした陰鬱の気流と、程よく溶け合い。
まるで――
水底の岩に落ち附く、枯葉のように。
わが身は、恐怖からも。
不安からも。
離れる事が出来るのでした。
あの、白痴の淫売婦たちの。
ふところの中で、安心してぐっすり眠る思いとは。
また、全く異なっていて――
(だいいち、あのプロステチュウトたちは、陽気でした)
その、詐欺罪の犯人の妻と過した一夜は。
自分にとって、幸福な。
――こんな、大それた言葉を。
なんの躊躇も無く、肯定して使用する事は。
自分のこの全手記に於いて、再び無いはずです。
幸福な、解放せられた夜でした。
けれども。
ただ一夜でした。
朝、眼が覚めて。
はね起き、自分はもとの軽薄な。
装える、お道化者になっていました。
弱虫は。
幸福をさえ、おそれるものです。
綿で、怪我をするんです。
幸福に、傷つけられる事もあるんです。
傷つけられないうちに。
早く、このまま、わかれたいと、あせる。
それでまた。
れいの、お道化の煙幕を張りめぐらすのでした。
金の切れめが、縁の切れめ――などと、よく言われますが。
あれは、逆なのです。
たしか、自分はそんな馬鹿げたことを言い出して。
ツネ子を、くすりと笑わせたような記憶があります。
金が無くなると、女に振られる――そういう意味じゃない。
そうじゃなくて。
男に金が無くなると、男は、ただおのずから意気銷沈して。
笑う声にも力が無くなり。
妙に、ひがみ始め。
ついには破れかぶれになって。
男のほうから、女を振るのです。
振って、振って。
半狂乱になって、振り抜くのです。
金沢大辞林という本に、そう書いてあった。
――可哀そうに。
僕にも、その気持、わかるがね。
たしかに。
そんなふうの放言をして。
ツネ子を、噴き出させたのです。
長居は無用、おそれありと、顔も洗わず。
素早くその場を引き上げたのですが――
あの時、自分が何気なく洩らした「金の切れめが縁の切れめ」という。
出鱈目のひと言が。
後になって、思いがけないひっかかりを生じました。
それから、ひとつき。
自分は、あの夜の恩人とは逢いませんでした。
別れて日が経つにつれ。
よろこびは、すこしずつ薄れて行き。
かりそめの恩を受けた事が、かえって恐ろしくなって。
自分勝手に、ひどい束縛を感じ始めたのです。
あの夜のカフエのお勘定を。
全部ツネ子に負担させた、という――ただの俗事さえ。
だんだん、気になり始めて。
ツネ子もまた、下宿の娘や。
あの女子高等師範と同じように。
自分を脅迫するだけの女のように思われてきて。
遠く離れていながらも。
絶えず、自分はツネ子におびえておりました。
その上、自分は。
一緒に休んだ事のある女に、また逢うとなると。
その時に、いきなり烈火の如く怒鳴られそうな気がして。
たまらなく、逢うのが頗るおっくうな性質でありました。
それゆえ、銀座は、自然に。
敬遠の形になって行きました。
けれども。
その「おっくうがる」という自分の性質は。
決して、狡猾さから来ていたのではないのです。
女性というものが、――
休んでからのことと、朝、起きてからのこととのあいだに。
一つの、塵ほどのつながりさえも持たせず。
完全な忘却の如く、二つの世界を見事に切断させて生きているという。
その、不思議な現象を。
当時の自分は、まだよく。
呑みこんでいなかった、ただそれだけのことでした。