銀の靴と北のキス


 何か、もうひとつ聞きたいことがあった。
 けれど、そのときだった。

 誰かが声を上げた。いや、皆だった。
 マンチキンたちが突然どよめいて、指を伸ばし、家の隅を示していた。

 私はそちらを見た。

 あの足――あの魔女の――なくなっていた。
 靴だけが、銀のまま、地面にぽつんと残されていた。

「どうしたの?」と、あの小さな女の人が言った。
 笑っていた。目も笑っていた。けれど、どこか、こわかった。

「とても年を取っていたからね。日差しの下で、すぐに消えてしまったの」
 まるで当たり前のことのように、さらりと答えた。

 その人は屈んで、靴を拾い上げた。
 手のひらで軽く埃を払って、それから、私の方へ差し出した。

「これは、あなたのものよ。履いていいのよ」

 私は手を伸ばして、受け取った。

「東の魔女はその靴をとても大切にしていたんだ」と、誰かが言った。
「何か強いお守りがあるらしい。でも、誰にもそれが何かは分からなかった」

 靴は冷たかった。けれど、手の中にちゃんと重みがあった。

 私はそれを持って、家の中へ戻った。
 テーブルの上に置いて、しばらく眺めた。

 なにか、よくない夢の続きみたいだった。

 それから、もう一度みんなの方へ出ていった。

「早く帰りたいの」
「叔母さんと叔父さんが、きっと心配してるから。道を教えてもらえますか?」

 みんな、顔を見合わせた。
 そして、誰一人、うなずかなかった。

「東には広い砂漠がある。生きて越えられる者はいない」
 年上の男の人が言った。

「南も同じ」と、別の人。
「見に行ったけど、無理だった。そこはカドリングの国さ」

「西は、もっと悪い」と、三人目が続けた。
「あの国は西の魔女が支配している。通れば、きっと奴隷にされる」

「北には、私が住んでいるけれど」
 あの魔女が言った。
「でも、その先にも砂漠が広がっていて、他の世界へは行けないわ」

 私は返事ができなかった。

 喉が詰まって、声が出なかった。
 ひとりぼっちというのは、こういうときのことを言うのだと思った。

 目が熱くなって、涙が頬を伝っていった。

 マンチキンたちが、静かに泣き始めた。
 誰も言葉を交わさなかった。

 ハンカチで目をぬぐうその人たちは、私よりもっと悲しそうに見えた。

 魔女は帽子を脱いで、それを額に乗せた。

「一、二、三」

 彼女の声が、空気を引きしめた。

 帽子が光りながら変わった。石板になって、白いチョークで、たった一行だけ書かれていた。

「ドロシーをエメラルドの都へ行かせよう」

 小さな魔女は鼻の先から石板をそっと外した。

 その目が、何かを読むように文字をなぞる。そして、私の方を見た。

「あなたの名前は、ドロシーかしら? 愛しい子?」

 私は頷いた。涙で濡れた頬を手の甲でこすりながら。

「そうなら、エメラルドの都へ行くべきだわ。きっとオズが力になってくれる」

 オズ。
 初めて聞く名前だった。

「その街は……どこにあるの?」

 私の声は、小さかった。でも、魔女はすぐに答えてくれた。

「それはこの国の中心よ。偉大な魔法使い、オズがそこを治めているの」

「オズって……いい人なの?」

 少し怖かった。魔法使いなんて、会ったことがなかったから。

「ええ。良い魔法使いよ。人間かどうかは、私にもわからない。だって、会ったことがないもの」

 私は靴のつま先を見た。銀がやわらかく光っていた。

「じゃあ……どうやってそこへ行けばいいの?」

「歩いて行くのよ。長い道のりになるわ。優しい土地もあれば、恐ろしい森も通ることになる」

 彼女は私を見つめながら言った。

「でもね。私は、知っているかぎりの魔法で、あなたを危険から守ってあげる」

 私はそっと、彼女の袖を握った。

 この人と一緒に行けたらいいのに。

「……ついてきてくれない?」

 そう願うように言った。

 でも、魔女は首を横に振った。

「それはできないの」と静かに言ってから、微笑んだ。
「でも、かわりにキスをあげましょう。北の魔女のキスを受けた子に手を出せる者はいないから」

 その言葉の響きが、不思議に胸に残った。

 魔女は一歩近づいて、私の額にそっと唇をあてた。

 その瞬間、あたたかな何かが額に触れて、そしてすぐにそれは光に変わった。
 丸い、やさしい光。

「黄色いレンガの道を歩いていけば、まちがえずに都へ着くわ」と魔女が言った。
「オズの前に出ても、恐れなくていい。ただ、自分のことを正直に話して、助けを求めるのよ。――さようなら、愛しい人」

 マンチキンたちは、三人とも深々と頭を下げた。

「どうか、よい旅を」と、誰かが言った。

 そのまま、木々の奥へと姿を消していった。

 魔女は私を見て、うなずいた。

 そして左のかかとで――一、二、三。

 くるくると回ると、その姿はふっと消えてしまった。

 まるで煙のように。

 トトが、そのあとでようやく吠えた。
 魔女がそばにいた間は、声を出すのさえ怖かったんだと思う。

 でも私は驚かなかった。

 魔女なら、きっとそうやって消えるだろうと、なぜか分かっていた。


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