ヒラメに説教されたのが、くやしくて逃げたのではありません。
それは事実に反します。
まさしく自分は、ヒラメの言うとおりの人間でした。
気持の定まらぬ、根の無い男でした。
将来の方針など、まるで見えませんでした。
それどころか、自分には、その努力すらなかったのです。
そのような自分が、なおもヒラメの家に居続ける。
それはヒラメにも気の毒な話です。
もし、万に一つでも、自分に志が芽生えたとして。
それでも、その後の資金をヒラメに頼るなど、到底できませんでした。
あの貧乏なヒラメから、月々の援助を受ける。
考えただけで、苦しく、恥ずかしく、いたたまれませんでした。
けれども、ヒラメの家を出た理由は、堀木に将来の相談をするためではなかったのです。
本気ではありませんでした。
ただ、ヒラメを少しでも安心させておきたかったのです。
自分が遠くへ逃げる間の、つかのまの猶予でした。
探偵小説のような逃亡の計画、それに似た気持も、少しはありました。
けれど、それよりも。
自分はいきなりヒラメに衝撃を与えるのが、ただ、ただ、おそろしくて。
だから、置手紙を書きました。
真実ではないことを、少しだけ書き添えて。
どうせ、あとで全部ばれるのです。
それでも、自分はいつも、少しだけ飾る癖があるのです。
それは、自分でも哀しい癖だと思います。
嘘に似ていて、けれど、利益を得たことは、ほとんどありませんでした。
雰囲気が急に変わる、それがこわかった。
場が凍る、その空気がこわかったのです。
その恐怖に耐えかねて。
自分はいつも、奉仕のような気持で、ちょっとした言葉を足してしまうのです。
たとえ、それで損をするのが分かっていても。
それでも、黙っていられませんでした。
それがまた、世間の「正直者」たちに見つかり、
思いきり笑われ、責められる種になりました。
だから、あのときも。
記憶の底から、ふと浮かんだままに。
堀木の名前と住所を、用箋の端に書いただけのことでした。
そして自分は、ヒラメの家を出ました。
歩いて、新宿まで行きました。
懐中の本を売りました。
そうして、やっぱり、途方に暮れてしまったのです。
自分は、人には、あいそがいいほうでした。
しかし、「友情」というものを、これまで一度も実感したことがありませんでした。
堀木のような遊び相手は、また別です。
けれど、それ以外のつき合いは、すべて苦痛でした。
その苦痛をごまかすため、自分はいつもお道化を演じていました。
すると、ますます疲れて、へとへとになるばかりでした。
わずかに知っている人の顔。
それに似た顔を、往来で見かけるだけでも、ぎょっとしました。
一瞬、めまいするほどの、不快な戦慄に襲われるのです。
人に好かれることは、知っていました。
でも、人を愛するという能力には、たしかに欠けていました。
(もっとも、自分は思っています。
世の中の人間に、本当に「愛」する力など、あるのかどうか。
それ自体が、たいへん疑わしいのです)
そんな自分に、所謂「親友」など出来るはずがありません。
それに、自分には「訪問」の能力さえありませんでした。
人の家の門。
それが、自分には、地獄の門よりも不気味に感じられました。
その門の奥には、竜のような、生臭い怪物がひそんでいる。
そうした気配を、誇張ではなく、本気で感じていたのです。
誰とも、つき合いがない。
どこへも、訪ねて行けない。
堀木――。
まるで、冗談から駒が出たような話です。
あの置手紙に書いたとおりに、自分は、浅草の堀木をたずねることにしました。
これまで、自分のほうから堀木の家に行ったことは、一度もありませんでした。
いつもは、電報で呼びつけていたのです。
でも、いまは、その電報料さえ、心もとない。
それに、落ちぶれた身のひがみもあって、
電報だけでは堀木は来てくれないかもしれぬ、と考えました。
それで、とうとう、「訪問」を決意しました。
溜息をついて、市電に乗りました。
この世で、自分に残された最後の綱は、堀木。
そう思い知ったとたん、自分は――。
何か、脊すじの寒くなるような、
ぞっとする気配に、身をすくめていたのです。