第三の手記 5


 はじめて、男妾のような生活を送りました。
 シヅ子。雑誌社に勤めている女記者でした。
 その彼女が新宿の職場へ出かけているあいだ、自分は五つになる女の子、シゲ子と二人きりで留守番をしていました。

 それまでは、母親のいない時間、シゲ子はアパートの管理人の部屋で遊んでいたようです。
 けれど、その部屋に、気の利いたおじさんが現れた。
 その男が遊び相手になってくれたらしく、シゲ子はずいぶん上機嫌でした。
 自分です。
 自分は、その部屋に居座り、一週間ほど、ぼんやりと日を過ごしていました。

 アパートの窓のすぐそばの電線に、奴凧がひとつ、引っかかっていました。
 春の埃風にあおられ、少しずつ破れ、それでもしつこく電線にからみついて離れない。
 その姿が、どこか自分に似ているようにも思えました。
 ときおり、うなずいているように見えることもありました。
 見るたびに、胸が苦しくなった。
 笑ってしまうのです。
 けれど同時に、赤面していました。
 夢にまで出てきて、目を覚ましたこともあります。

「お金が、ほしいな」

「……いくら位?」

「たくさん。金の切れ目が縁の切れ目って、ほんとうのことだよ」

「ばかばかしい。そんな、古くさい……」

「そう? でも、君にはわからないんだ。このままでは、僕、逃げるかもしれない」

「いったい、どっちが貧乏なのよ。そうして、どっちが逃げるのよ。へんねえ」

「自分でかせいで、その金で、お酒を。いや、煙草を買いたい。絵だって、僕は、堀木なんかより、よほど上手なつもりなんだ」

 こうして言葉を重ねながらも、頭に浮かんでくるのは決まっていました。
 中学時代に描いた、竹一のいわゆる「お化け」の自画像です。

 何枚かありました。
 けれど、それらは引越しを重ねるなかで、とうに失われてしまいました。
 それでも、自分にとっては確かに、あれが傑作だったのです。

 あれ以来、いろいろ描いてみました。
 けれど、どうしても、あの思い出の絵には及ばなかった。
 胸が空っぽになるような、だるい喪失感。
 それに、ずっと悩まされていました。

 飲み残した、一杯のアブサン。
 自分は、その償いがたい感覚に、そう名を与えていました。
 心の底に、黙って抱えていたものです。

 絵の話になると、そのアブサンが眼前にちらついてきます。
 ああ、あの絵をこの人に見せたい。
 それで、自分の画才を信じさせたい。
 けれど、それはできなかった。
 焦って、もだえながら、結局話題を変えることになります。

「漫画さ。すくなくとも、漫画なら、堀木よりは上手いと思ってる」

 道化のような言い草でした。
 けれど、そう言ってしまったほうが、かえって信じてもらえる気がしました。

「そうね。私も実は感心してたの。シゲ子にかいてやってる漫画、つい私まで笑ってしまう。やってみたら? 私の社の編集長に、たのんであげてもいいわ」

 その雑誌社では、子供向けの月刊誌を出していました。
 あまり知られてはいない、地味な雑誌でした。

 ……あなたを見ると、たいがいの女のひとは、何かしてあげたくなってしまう。
 おどおどしてて、それでいて、滑稽家。
 ひとりで、ひどく沈んでいる。
 そのさまが、女の心を、かゆがらせる。

 そんなふうに言われました。
 おだてられても、嬉しくはなりません。
 むしろ、気が滅入りました。

 それがつまり、男めかけの特質なのです。
 穢らわしいのです。
 そう思えばこそ、ますます「沈む」ばかりで、元気など出ようはずもありませんでした。

 女より金。
 どうにかして、シヅ子から離れたい。
 自活したい。
 そう願って工夫しました。
 けれど逆でした。
 ますます、シヅ子に頼るしかなくなってしまったのです。

 家出の後始末。
 身の回りの整理。
 何から何まで、シヅ子に面倒を見てもらいました。
 自分はますます、シヅ子に対して、おどおどしなければならなくなったのです。

 やがて、シヅ子の取り計らいで、ヒラメ、堀木、それにシヅ子。
 三人の会談が成立しました。
 それによって、自分は故郷と完全に縁を切られた。
 そして、シヅ子との同棲生活が「天下晴れて」始まりました。

 また、これもシヅ子の奔走によるものでしたが、自分の漫画が案外金になりました。
 その金で、お酒も、煙草も買うことができました。
 けれど、心細さは募るばかりでした。
 うっとうしさも、ひどくなっていくばかりでした。

 すっかり「沈み」に沈み切っていました。
 雑誌に連載中の「キンタさんとオタさんの冒険」を描いている最中でした。
 ふと、故郷の家を思い出しました。
 あまりのわびしさに、ペンが止まりました。
 うつむいて、涙がこぼれました。

 そういう時。
 自分にとって、かすかな救いは、シゲ子でした。

 シゲ子は、いつの間にか、ためらいもなく言うようになっていました。
 「お父ちゃん」――と。


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