吠えるけれど、震えていた


 森の中は、とても静かだった。
 私たちは、深く深く、その奥を歩いていた。

 足もとの道は、まだ黄色いレンガでできていたけれど、枯れ枝や落ち葉がいっぱい落ちていて、とても歩きにくかった。足を取られないように気をつけながら、一歩ずつ進んだ。

 鳥の姿は、ほとんど見えなかった。あんなに大きな森なのに。きっと、陽の当たる場所が好きなんだと思う。

 でも、ときどき。
 木々の奥から、低い唸り声が聞こえた。

 それが何の音か、私にはわからなかった。
 胸の奥が、どくどくしてきた。怖かった。

 けれど、トトは平気そうだった。私のすぐ横を歩いていて、唸り声に吠え返したりはしなかった。多分、彼には何かがわかっていたんだと思う。

「森を抜けるまで、あとどれくらいかかるの?」
 私は、ブリキの木こりにたずねた。

「わかりません」
 彼は少し首をかしげて、そう言った。

「エメラルドの都には行ったことがないんです。でも、父が昔行ったそうです。とても長い旅で、途中には危険な国もあったと聞きました。でも都が近づくと、美しい景色が広がっていたそうです。私は油の缶さえあれば大丈夫ですし、かかしを傷つけるものもありません。あなたには魔女のキスがあるでしょう。それがあれば、きっと守られます」

 それを聞いて、私はふと立ち止まった。
 トトの顔を見た。

「でも……トトは?」
 小さな声でそう言った。

「トトを守ってくれるものは、何もないわ」

「彼が危険にさらされるなら」
 木こりは静かに言った。

「私たち自身で、守らなければいけません」

 そのときだった。

 恐ろしい咆哮が、森じゅうに響き渡った。
 そして、次の瞬間。

 大きなライオンが、道の上に飛び出してきた。

 その前足が振り下ろされて、かかしが宙を舞った。くるくると何度も回転して、道の端まで飛ばされていった。

 それでもライオンは止まらなかった。今度はブリキの木こりに、鋭い爪で襲いかかった。けれど、彼は何も言わずに倒れたまま動かなくなった。

 それでも、ブリキの体にはひとつの傷もなかった。

 その時、小さなトトが吠えながら飛び出した。
 敵が目の前にいるとき、彼はいつもそうする。

 ライオンは、トトを噛もうとして口を開けた。
 私は、もうだめだと思った。

 無我夢中だった。

 私は前に飛び出して、ライオンの鼻を思いきり叩いた。

「だめよ! この子を噛むなんてとんでもない!」
「あんたみたいに大きな獣が、小さな犬を襲うなんて、恥を知りなさい!」

 私の叫び声が響いた。

 ライオンは驚いた顔をして、前足で鼻をこすった。

「僕は……噛んでないよ」

 そう言ったけれど、私はすぐに言い返した。

「でも、噛もうとしたでしょ。あんたなんか臆病者よ」

「そうなんだ」
 ライオンは目を伏せた。
 とても恥ずかしそうだった。

「ずっと、そうなんだ。僕は臆病なんだ。でも、どうしたらいいかわからない」

「そんなの知らないわ」
 私は、転がったかかしに駆け寄った。

「かわいそうに。こんなに軽く飛ばされるなんて」

 私がかかしを起こしていると、ライオンが首を傾げた。

「彼、詰め物が詰まってるの?」

「そうよ。お腹いっぱいにね」
 私は怒ったまま、彼の体をなでて、形を整えた。

「だから、くるくる回ったんだ」
 ライオンが言った。

「それに、もうひとりの方は……あれは何でできてるの?」

「ブリキよ」

 私がブリキの木こりを助け起こすと、ライオンは小さくうめいた。

「そりゃそうだ。僕の爪、引っかいた瞬間に凍りついたよ。あんなに固いとは思わなかった」

 そして、トトの方を見て言った。

「それで、あの小さい子は何? あんたにくっついていたけど……」

「彼は私の犬、トトよ」

「ブリキ? それとも、ぬいぐるみ?」

「違うわ。ちゃんとした生きてる犬よ」

「なんてこと……」
 ライオンはしばらくトトを見つめた。

「こんなに小さな生き物を噛もうとするなんて。僕みたいな臆病者以外、誰もしないよ」

 私は、あらためて彼を見上げた。
 小さな馬よりもずっと大きかった。

「どうして臆病なの?」

 ライオンは、森の方を見ながら言った。

「それが自分でもわからないんだ」

「たぶん、生まれた時からそうだったんだろうね。ライオンは“百獣の王”って言われてるから、みんな僕を怖がる。だから、大きな声で吠えると、みんな逃げるってことだけは覚えた。でも、本当は……僕の方が、いつも怖いんだ」

「人間に会うと、逃げたくなる。でも、吠えるだけで彼らは走っていった。もし、ゾウやトラやクマに戦いを挑まれたら、僕は逃げてたと思う。僕は、ほんとうに臆病者なんだ」

「でも、吠えれば逃げてくれるから……だから吠える。それだけなんだよ」

 かかしが、静かに口を開いた。

「でもそれじゃ、百獣の王にはなれないよ」


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