堀木が、平然とそう言いました。
自分は、ふたたび堀木の顔を見直しました。
近くのビルの明滅するネオンサインの赤い光が、堀木の頬に射していました。
その顔は、鬼刑事のように見えました。
威厳を帯びていました。
自分は、つくづく呆れました。
「罪ってのは、君、そんなものじゃないだろう」
罪の対義語が、法律とは。
しかし世間の人たちは、おそらく皆、それくらいに簡単に考えて、そうして澄まして暮らしているのかも知れません。
刑事のいないところにこそ、罪はうごめいているのです。
「それじゃ、なんだい? 神か? お前には、どこかヤソ坊主くさいところがあるからな。いや味だぜ」
「まあ、そんなに軽く片づけるなよ。もう少し、二人で考えてみよう。これは――でも、面白いテーマじゃないか」
この問いに対する答ひとつで、その人間の全部が、わかるような気がするのです。
「まさか。……罪のアントは善さ。善良なる市民。つまり、おれみたいなもんだ」
「冗談はよしてくれ。けれども善は、悪のアントだ。罪のアントではない」
「悪と罪とは、違うのか?」
「違う――と思う」
善悪の概念は、人間がつくった言葉です。
道徳。作りもの。
「うるせえなあ。それじゃ、やっぱり神だろ。神、神。なんでも神にしときゃ、間違いねえ。――腹がへったなあ」
「いま、下でヨシ子がそら豆を煮ている」
「ありがてえ。好物だ」
堀木は、両手を頭の後ろに組みました。
そのまま、仰向けに寝ころびました。
「君には、罪というものが、まるで興味がないらしいね」
「そりゃそうさ。お前のように、罪人じゃねえからな。道楽はしても、女を死なせたり、女から金を巻き上げたりなんて、おれはしない」
死なせたのではない。
巻き上げたのではない。
心のどこかで、かすかな、けれども必死の抗議の声が上がります。
けれども、すぐに思いなおしてしまう。
いや、自分が悪いのだ。
その思考の癖。昔からの習慣です。
自分には、正面切っての議論ができません。
焼酎の陰鬱な酔いのために、刻一刻と気持が険しくなって来るのを、必死に抑えて、ほとんど独りごとのように言いました。
「しかし、牢屋に入れられることだけが、罪じゃないんだ」
ほとんど独りごとのように、ぽつりと口に出しました。
「罪のアントがわかれば、罪の正体も、少しはつかめそうな気がする」
そこで一度、言葉を切りました。
「……神。……救い。……愛。……光」
ひとつずつ、確かめるように口にしました。
「けど、神にはサタンがある。救いのアントは苦悩。愛には憎しみ、光には闇がある。善には悪。――どれも違う気がする」
「罪と祈り。罪と悔い。罪と告白。罪と……」
言いかけて、ふっと息をつきました。
「嗚呼、みんなシノニムだ。対義語じゃない。罪の対語は、何だ」
「ツミの対語は、ミツさ。蜜のように、甘し。――腹がへったなあ。何か食うもの持って来いよ」
「君が持ってきたらいいじゃないか!」
はじめて、声が怒りにふるえました。
ほとんど生まれてはじめて、烈しい怒声を上げました。
「ようし、それじゃ、下へ行って、ヨシちゃんとふたりで罪を犯してこよう。議論より実地検分。罪のアントは蜜豆、いや、そら豆か」
堀木は、ろれつも廻らぬほど酔っていました。
「勝手にしろ。どこかへ行っちまえ!」
「罪と空腹、空腹とそら豆。いや、これはシノニムか」
ぶつぶつ言いながら、ふらりと起き上がりました。
罪と罰。
ドストイエフスキイ。
その言葉が、ちらと頭の片隅をかすめました。
はっとしました。
もし、あのドスト氏が「罪と罰」を、シノニムではなく、アントニムとして並べたのだとしたら?
罪と罰――絶対に相容れぬもの。
氷炭相容れず。
罪と罰をアントと見た、ドストの青みどろ。
腐った池。
乱麻の底。
ああ、わかりかけた――いや、まだ。
そのときでした。
「おい! とんだ、そら豆だ。来い!」
堀木の声が、変わっていました。
顔色も変わっていました。
さっきまで仰向けに寝ていたかと思えば、ふらふらと起きて下へ行き、そうしてまた引き返して来たのです。
「なんだ?」
ふたり、異様な殺気を帯びながら、屋上から二階へ降りました。
二階から、さらに階下の自分の部屋へ向かう、その途中で堀木は立ち止まりました。
そして小声で言いました。
「見ろ」
堀木の指が、闇を指していました。