第三の手記 14


 自分の部屋の上の小窓が、開いていました。
 そこから、部屋の中が見えました。電気は点いたまま、ふたつの影がうごめいていました。

 自分は、ぐらぐらと目まいがしていました。
 ――これもまた、人間の姿。これもまた、人間の姿。おどろくことはない。

 そう胸の中で、激しい呼吸と共に呟きました。
 けれども、ヨシ子を助けることも忘れ、階段の途中で立ち尽くしたまま、動けませんでした。

 堀木が、大きく咳ばらいをしました。
 自分は、ひとり逃げるように屋上へ駆け上がり、そのまま仰向けに寝ころびました。

 雨を含んだ夏の夜空を、見上げました。
 そのとき、自分を襲った感情は、怒りでもなく、嫌悪でもなく、また、悲しみでもありませんでした。

 それは――もの凄い恐怖でした。
 墓地の幽霊に向けるそれではなく、
 神社の杉木立の奥で、白い御神体に出くわしたときのような、古代の恐怖。
 四の五の言わせぬ、あらがえぬ力の気配。
 荒々しく、野蛮で、神聖な、それでした。

 自分の若白髪は、その夜からはじまりました。
 いよいよ、すべてに自信を失い、いよいよ、底知れず人を疑いはじめました。

 この世の営みから、よろこび、期待、共鳴といったすべての感情が、
 永遠に、遠ざかって行きました。

 ――それは、自分の生涯において、決定的な事件でした。

 眉間を、まっこうから割られました。
 その傷は、それ以来、どんな人間に近づいても、必ず痛みました。

「同情はするが、まあ、少しは思い知ったろう」

 堀木は、平然と言いました。

「もう、おれは来ない。……まるで地獄だ」

 肩をすくめて、

「でも、ヨシちゃんは、ゆるしてやれ。お前だって、ろくな奴じゃないんだから。……失敬するぜ」

 堀木は、そう言い捨てて、すっとその場を離れました。
 気まずい場所に、長く居座るような男ではありませんでした。

 自分は、起き上がりました。
 ひとりで、焼酎を飲みました。
 そうして――おいおい、声を出して泣きました。

 いくらでも、いくらでも、泣けるのでした。

 いつの間にか、背後にヨシ子が立っていました。
 手には、そら豆を山盛りにした皿を持って。
 ぼんやりと、立っていました。

「なんにも、しないからって……言って……」

 ヨシ子は、か細い声で言いました。

「いい。何も言うな。お前は、人を疑うことを知らなかったんだ」

 自分は、制しました。

「お坐り。豆を食べよう」

 ふたりで並んで坐り、黙って、豆を食べました。

 嗚呼――信頼は、罪なりや。

 あの男は、自分に漫画を描かせては、いくらかの金を投げ置いて行く、
 三十前後の、無学な、小男の商人でした。

 けれども、さすがにその商人は、もう現れませんでした。

 なのに、なぜだか、自分の怒りは、その商人に向かうよりも、
 あの時、大きな咳ひとつせず、自分にそっと知らせに来た堀木に対して、
 眠られぬ夜などに、むらむらと込み上げてくるのでした。

 ゆるすも、ゆるさぬも、ありません。
 ヨシ子は、信頼の天才でした。
 疑うということを知らなかったのです。

 ――しかし、それゆえの、悲惨。

 神に問う。信頼は、罪なりや?

 ヨシ子が汚されたという事実よりも、
 ヨシ子の信頼が汚されたという事実が、
 自分には、生きていられぬほどの苦悩の種となりました。

 自分のような――いやらしく、おどおどして、
 ひとの顔色ばかり伺い、
 人を信じる力が、とうにひび割れている者にとって、
 ヨシ子の無垢な信頼は、それこそ、青葉の滝のように、
 すがすがしく思われていたのです。

 それが、一夜にして、黄色い汚水に変わってしまった。

 見よ、ヨシ子は、その夜から、
 自分の一顰一笑にさえ、気を遣うようになりました。

「おい」

 と呼べば、ぴくっとして、目のやり場に困る様子でした。

 どんなに笑わせようと努めても、
 お道化を言っても、
 ヨシ子は、おろおろし、びくびくし、やたらに敬語を使いました。

 果たして、無垢の信頼心は――罪の原泉なりや。


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