それっきり、自分は一言も口をきかずに薬屋を出て、よろよろとアパートに帰りました。
ヨシ子に塩水を作らせて飲み、黙って寝ました。
翌日も風邪気味だと嘘をつき、一日中寝て過ごしました。
夜になると、秘密の喀血が不安でたまらなくなり、起きてあの薬屋へ向かいました。
今度は笑いながら、奥さんに素直に体調を告げ、相談をしました。
「お酒はやめなさい」
奥さんは言いました。
「私の主人もテーベの癖に、菌を酒で殺すなどと言い、酒浸りになって寿命を縮めました」
自分は、
「不安で仕方がない。怖くてたまらない」
と答えました。
奥さんは薬を差し出しながら、
「お酒だけは、やめてくださいね」
と優しく言いました。
奥さんは未亡人で、男の子が一人いました。
その子は医大に通い、病気で休学入院中。
家には中風の舅が寝ており、奥さん自身は幼い頃に小児麻痺で片脚が動かず、松葉杖をついていました。
彼女はコトコトと杖を突きながら、こちらのために薬棚から次々に薬を取り出してくれました。
「これは造血剤」
「これはビタミンの注射液。注射器はこれです」
「カルシウムの錠剤。胃に優しいジアスターゼも」
五、六種類の薬を一つ一つ愛情を込めて説明してくれました。
しかしその愛情も、自分には重すぎました。
最後に奥さんが取り出したのは、小さな紙包み。
「これは、お酒がどうしても止められなくなった時の薬です」
それはモルヒネの注射液でした。
奥さんは、
「酒より害は少ないでしょう」
と言い、自分も信じました。
酔いもだんだん不潔に感じ始めていた矢先であり、
久しぶりにアルコールという悪魔から逃れられる喜びもあって、
躊躇なく自分は腕にモルヒネを注射しました。
不安も焦燥もすっかり消え去り、
自分は陽気な能弁家になりました。
注射を打つと、衰弱も忘れ、漫画の仕事にも精が出て、
珍妙な趣向が湧き出し、自ら描きながら笑ってしまうほどでした。
一日一本のつもりが、二本、四本と増え、
やがてそれなしでは仕事ができなくなりました。
「いけませんよ、中毒になったら大変です」
薬屋の奥さんに言われると、
自分は中毒患者になった気がしてきました。
(自分は人の暗示に弱いのです。
「このお金は使わないで」と言われても、
「お前のことだもの」と返されると、
使わないと悪いような気になり、
すぐにその金を使ってしまうのです)
中毒への不安から、
薬を余計に求めるようになりました。
「たのむ! もう一箱。勘定は月末に払いますから」
「勘定はいつでもいいですが、
警察がうるさいのです」
いつも自分の周囲には、
濁り暗い、怪しい影がまとわりつきました。
「どうかお願いしますよ、奥さん。キスしてあげましょう」
奥さんは顔を赤らめました。
自分はますます調子に乗り、
「薬がないと仕事がはかどらないんだ。
あれは強精剤みたいなものなんだよ」
「ならホルモン注射がいいでしょう」
「ばかにしないでくれ。
お酒かあの薬か、どちらかでないと仕事ができない」
「お酒はだめです」
「そうでしょう?
薬を使い始めてからは、
一滴も飲んでいません。
おかげで体調はとても良い。
僕はいつまでも下手な漫画を描くつもりはない。
酒をやめて体を治し、
勉強して、きっと偉い絵描きになります。
今が大事なときなんだ。
だからさ、お願い。キスしてあげようか」
奥さんは笑って言いました。
「困りますわね。中毒になっても知らないわよ」
松葉杖の音をコトコト響かせ、
薬棚から薬を取り出しました。
「一箱はあげられません。
すぐ使ってしまうから。
半分にしましょう」
「ケチだなあ。でも仕方ない」
家に帰ってすぐ、一本注射をしました。