第三の手記 17


 それっきり、自分は一言も口をきかずに薬屋を出て、よろよろとアパートに帰りました。

 ヨシ子に塩水を作らせて飲み、黙って寝ました。

 翌日も風邪気味だと嘘をつき、一日中寝て過ごしました。

 夜になると、秘密の喀血が不安でたまらなくなり、起きてあの薬屋へ向かいました。

 今度は笑いながら、奥さんに素直に体調を告げ、相談をしました。

 「お酒はやめなさい」

 奥さんは言いました。

 「私の主人もテーベの癖に、菌を酒で殺すなどと言い、酒浸りになって寿命を縮めました」

 自分は、

 「不安で仕方がない。怖くてたまらない」

 と答えました。

 奥さんは薬を差し出しながら、

 「お酒だけは、やめてくださいね」

 と優しく言いました。

 奥さんは未亡人で、男の子が一人いました。

 その子は医大に通い、病気で休学入院中。

 家には中風の舅が寝ており、奥さん自身は幼い頃に小児麻痺で片脚が動かず、松葉杖をついていました。

 彼女はコトコトと杖を突きながら、こちらのために薬棚から次々に薬を取り出してくれました。

 「これは造血剤」

 「これはビタミンの注射液。注射器はこれです」

 「カルシウムの錠剤。胃に優しいジアスターゼも」

 五、六種類の薬を一つ一つ愛情を込めて説明してくれました。

 しかしその愛情も、自分には重すぎました。

 最後に奥さんが取り出したのは、小さな紙包み。

 「これは、お酒がどうしても止められなくなった時の薬です」

 それはモルヒネの注射液でした。

 奥さんは、

 「酒より害は少ないでしょう」

 と言い、自分も信じました。

 酔いもだんだん不潔に感じ始めていた矢先であり、

 久しぶりにアルコールという悪魔から逃れられる喜びもあって、

 躊躇なく自分は腕にモルヒネを注射しました。

 不安も焦燥もすっかり消え去り、

 自分は陽気な能弁家になりました。

 注射を打つと、衰弱も忘れ、漫画の仕事にも精が出て、

 珍妙な趣向が湧き出し、自ら描きながら笑ってしまうほどでした。

 一日一本のつもりが、二本、四本と増え、

 やがてそれなしでは仕事ができなくなりました。

 「いけませんよ、中毒になったら大変です」

 薬屋の奥さんに言われると、

 自分は中毒患者になった気がしてきました。

 (自分は人の暗示に弱いのです。

 「このお金は使わないで」と言われても、

 「お前のことだもの」と返されると、

 使わないと悪いような気になり、

 すぐにその金を使ってしまうのです)

 中毒への不安から、

 薬を余計に求めるようになりました。

 「たのむ! もう一箱。勘定は月末に払いますから」

 「勘定はいつでもいいですが、

 警察がうるさいのです」

 いつも自分の周囲には、

 濁り暗い、怪しい影がまとわりつきました。

 「どうかお願いしますよ、奥さん。キスしてあげましょう」

 奥さんは顔を赤らめました。

 自分はますます調子に乗り、

 「薬がないと仕事がはかどらないんだ。

 あれは強精剤みたいなものなんだよ」

 「ならホルモン注射がいいでしょう」

 「ばかにしないでくれ。

 お酒かあの薬か、どちらかでないと仕事ができない」

 「お酒はだめです」

 「そうでしょう?

 薬を使い始めてからは、

 一滴も飲んでいません。

 おかげで体調はとても良い。

 僕はいつまでも下手な漫画を描くつもりはない。

 酒をやめて体を治し、

 勉強して、きっと偉い絵描きになります。

 今が大事なときなんだ。

 だからさ、お願い。キスしてあげようか」

 奥さんは笑って言いました。

 「困りますわね。中毒になっても知らないわよ」

 松葉杖の音をコトコト響かせ、

 薬棚から薬を取り出しました。

 「一箱はあげられません。

 すぐ使ってしまうから。

 半分にしましょう」

 「ケチだなあ。でも仕方ない」

 家に帰ってすぐ、一本注射をしました。


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